『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』崩壊する“偽り”のユートピア
映画版だけに許された“禁じ手”
ディノズアイランドの創設者バブル・オドロキーは、敏腕プロデューサーとして様々なプロジェクトを成功に導いてきた。だが周囲の期待はどんどん膨れ上がり、要求されるレベルもどんどん上がっていく。思わず恐竜のテーマパーク建設という夢物語をでまかせで言ってしまい、慌ててその実現に奔走。息子のビリーに「恐竜を現代に蘇らせる」という難題を突きつける。 ビリーは懸命に研究に打ち込むものの、恐竜の復活が想像以上に困難であることを知ったバブル・オドロキーは、ロボットで恐竜を偽装する方向に舵を切る。ディノズアイランドは、徹頭徹尾フェイクのテーマパーク。その欺瞞を誰よりも理解しているからこそ、彼は本物にこだわる。ナナを奪還して、最高のエンターテインメントを提供しようと目論む。多くの人々に驚きを与えたいという気持ちは、本物なのだから。 恐竜がロボットであることがバレてしまうと、オドロキーはカスカベの住民たちをさらってディノズアイランドに幽閉。ここがエンターテインメント・ワールドであることを理解させようとする。なんという子どもっぽさ。なんという大人気なさ。『オラたちの恐竜日記』は、崩壊する“偽り”のユートピアと必死に繋ぎ止めようとする、哀しき初老の男の物語である。だからこそ、この映画にはどこか物悲しさがあるのだ。 “物悲しさ”でいうと、本作でもうひとつ特徴的なのは、ナナが最後に非業の死を遂げてしまうことだろう。しんのすけたちがナナを囲んでその死をいたわるシーンは、あまりにも切ない。そして本来この結末は、禁じ手であったはずだ。 『サザエさん』、『ちびまる子ちゃん』、もしくは『ドラえもん』のように、登場人物たちが年を取らず、永遠に変わらない日々を過ごす一話完結型のアニメーションにおいて、愛する者の死を描くことは御法度中の御法度。なぜならその行為は、主人公に成長を促してしまうからだ。永遠の5歳・野原しんのすけが大人になってしまったら、この世界は目的を見失い、崩壊してしまう。 逆に言うと、この手法は劇場用アニメという特殊形態のみに許された行為ともいえる。90分~120分の尺で描かれる物語であれば、多かれ少なかれ登場人物は成長してしまう。だがこのエピソードも次回作の32作目では時が巻き戻され、いつもの日常が回復することだろう。主人公の周りに起きた事件・出会った登場人物が、経験として積み重なっていく「ストーリードラマ」ではなく、主人公の周りに起きた事件・出会った登場人物が、次の作品になるとリセットされているレギュラードラマだからこそ、“死”という禁じ手が有効的なのだ。 崩壊するユートピアという、クレしん的テーマ。映画版だけに許された、愛する者の死。『クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』は、観客に求められていることを全て標準装備した、非常に理知的な作品である。
文 / 竹島ルイ