妻に「日記」を読まれることで自分に“刺激を与える”夫…谷崎潤一郎が描いた『鍵』の世界(レビュー)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介 今回のテーマは「日記」です *** 日記は他人には読まれたくないもの。 山田太一脚本のテレビドラマ「いちばん綺麗なとき」(平成十一年)では、夫以外の男性とひそかに付き合うようになった妻が、夫に読まれないためになんと鍵付きの日記帳を使っていた。 夫婦であっても、日記は相手に読まれたくないもの。 ところが逆に、相手に読まれることを望んで日記を書く者もいる。
谷崎潤一郎の『鍵』(昭和三十一年)の主人公、五十六歳になる京都に住む大学教授は、妻に読まれることを知りつつ日記をつける。 そこには「夫婦生活ニ関スル記載ガ頻繁ニ現ワレル」。当然、妻は好奇心にかられ読むに違いない。それを知ることで夫は自分に刺激を与える。 一方、妻のほうも「実は私も、今年から日記をつけ始めている」。そうすることで妻は夫の性の共犯者になってゆく。 妻は夫の望むように、夫の助手と関係を持ち、次第に昼の貞淑な妻から夜の大胆奔放な女へと変ってゆく。 このあたり、つねに女性上位の世界を描く谷崎ならでは。夫は裸の妻を眺めるだけで満足していたのに、いったん目ざめた妻はそれではおさまらない。 はじめは主導権を持っていた夫は次第に力を失ってゆき、心身ともに弱ってしまう。もはや「妻ト抱擁スル以外ニハ能ノナイ動物」と化してゆく。 夫が哀れに見えてくるがこの徹底的に受身の老残の姿こそ谷崎の老いの理想なのかもしれない。 [レビュアー]川本三郎(評論家) 1944年、東京生まれ。文学、映画、東京、旅を中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『今ひとたびの戦後日本映画』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』などがある。最新作は『物語の向こうに時代が見える』。 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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