ベトナムで自律的な町並み保存を引き出した日本の協力とは:世界遺産の街・ホイアンからの報告
ベトナム人の尊厳に配慮
丁寧なプロセスを踏んだのは、ベトナムの文化財の修理を外国である日本の協力の下で行うことによるトラブルを避けるためだ。ベトナム人の主体性や尊厳に配慮しながら、日越の関係者が一緒に工事を進められるよう工程管理にも配慮した。 さらにホイアン市は1996年9月から2年間、日本の技術指導を受けない文化財修復工事を禁止。野放図な再建築などで伝統的建造物の文化財価値を損なわないようにし、現地技術者の技術向上を図るのが目的だった。町並み保存を重視した当時のグエンスー市長の英断だった。 こうして、ホイアン市は短期間で独立して町並みを保存できる体制を整え、1999年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産登録が実現した。 日本はこれまで、エジプトのピラミッドやカンボジアのアンコールワットなどの遺跡の発掘や保存でも大きな役割を果たしたが、それは複数の国の中の一つとしてであった。ホイアン歴史地区の保存は日本だけが協力する形で始まり、日本主導で進んでいった。日本の存在感は極めて大きいといえる。 日本の協力が重視された背景には、ホイアンの歴史地区が木造建築群だったこともある。日本は、木造建築として世界最古の法隆寺夢殿、最大の東大寺大仏殿を保存してきた実績がある。そのためホイアンの市民は、木造建築の保存を日本に任せようと決めたのだ。
観光客急増、町並み保存あってこそ
1999年の世界遺産登録後、ホイアンへの国際協力は、文化庁・昭和女子大学を中心とする日本の町並み保存への協力から、次第に世界各国からの水道・電気・街路整備などの協力へと拡大していった。日本のJICAも青年海外協力隊員を常駐させ、日本橋周辺の水環境整備、町中の衛生環境整備、美化活動など、観光基盤整備への協力を続けた。2018年にはJICAが水質改善のため、下水処理施設の建設や日本橋水路の改修などを行った。 観光客は1999年の世界遺産登録の2~3年前から増加。20万人程度で推移していたが世界遺産登録後の2001年には40万人になった。毎年観光客は増え続け、11年には150万人、18年には500万人を超えた。コロナ禍を乗り越えた24年には、これを超えると見込まれている。町並みの保存に力を入れてきたからこその、観光の成功である。 ホイアン市は、観光客を楽しませる努力もした。世界遺産登録前は夜の通りは真っ暗で、観光客は夜をホテルで過ごしていた。そこで、ランタン祭りや灯篭(とうろう)流しなどの行事を月1回から始め、今や毎晩のように夜市が開かれ、町に人があふれている。 さらに長期滞在型の観光を目指し、伝統的窯業村の復興、体験型農園の開設、田園生活体験型民宿の推進、田園地帯のエコツアーなどにより郊外へ観光客を誘導した。シーサイドリゾート開発や沖のチャム島の観光開発も進んだが、日本は2016年から3年間、JICA草の根技術協力により島の開発に協力している。 2003年からは日越国交を記念した日本祭が毎年8月に続いている。今、ホイアン市の海外交流は日本だけでなく、英国、ドイツ、フランス、中国、台湾、韓国などにも広がっている。ホイアンは大航海時代から外国の人々を大切に受け入れてきたからだろうか、観光客増加の要因のひとつとして、ハード、ソフト面の整備だけでなく、外から来る人への歓迎を忘れないのである。