ベトナムで自律的な町並み保存を引き出した日本の協力とは:世界遺産の街・ホイアンからの報告
朱印船貿易、日本人町の歴史
この橋は1593年に日本人の商人たちの資金によって初めの形が建設され、1817年に再建されたものだと推定されている。 ホイアンは、16世紀から17世紀の大航海時代に中国船やポルトガル、オランダ商船が集まる中継貿易港として繁栄した。中国の明朝が、日本を対象に民間人の海上交易を禁止する海禁政策に転じると、日本の豪商が御朱印船でホイアンに渡海。日本橋の東側に日本人町をつくり、繁栄した。江戸幕府が鎖国政策に転じても日本人町は17世紀後半まで続いた。日本橋は周囲の火災などにより移設されたが、今の橋の付近からも日本との関係を示す遺物が発掘され、古くからの日越交流を感じさせる場所となっている。
町並み保存に日本の特別な支援
成長が続くベトナムは政府開発援助(ODA)対象国からも卒業しつつある。文化財保存についても近年は、日本に一方的に協力を求めることはない。報道によると今回の橋の改修における総費用は202億VND(約1億円強)で、地元のクアンナム省とホイアン市の関係機関が拠出したとされ、日本の資金援助は民間の一部に限られた。日本とベトナムの専門家が対等に意見交換できるよう心がけ、より良い方法で日本橋を後世に残すというスタンスだった。 だが、この30年余りの日本の協力は、ホイアンにとって特別なものだったことは間違いない。 1990年代初め、ホイアン旧市街では住宅や集会所、寺院、神社など多くの建物が老朽化し、倒壊の恐れがあった。住宅には当然、住民がおり、維持、保存の価値を分かってもらうことが重要だった。 日本側は93年から昭和女子大を中心にさまざまな大学や専門家のチームが、文化庁の指導の下、旧市街の調査研究を実施。町並み保存の技術協力を担ってきた。私は当時、対応チームの代表を務めていた。 日本の協力内容は、大きく分けて技術や情報の提供と現地の人材育成だった。そしてその手法は5つの段階に分類できる。 第1は、町並みに関わる歴史的経緯や建物の構造などの調査に加え、住民の建物の利用実態に関する意向を調査すること。第2に文化遺産を保存するための工事などの変更を日本に託すため、コンセンサスを形成すること。第3に歴史的な建物の所有者や関係する地域住民、行政と建築物の保存に関して相談すること。第4に、現地の住民組織「ホイアンソサエティー」に、日本で集めた寄付金や助成金を託し、伝統民家の持ち主が修復工事を行えるように資金援助する仕組みを調整すること。そして第5として、日本から派遣した文化財修復の専門家による基本的技術を伝達することだった。 ベトナム側は世界遺産登録を急いでおり、上記のプロセスはほぼ同時に進んだ。 技術の伝達は例えば、骨董(こっとう)のつぼを直すのに、全体を元の形として作り直すのではなく、金継ぎなどで古い部材を極力残しながら直すといった手法を、ベトナム人技術者に知ってもらうことだった。この基本を理解すれば、古い町並みの修復方法は自然と身に付き、具体的にどの技術を使えば良いかも自分で考えられる。ホイアン市の遺跡管理事務所の幹部を日本に招聘(しょうへい)し、大学での技術習得も促した。