国民雑誌『キング』誕生から100年…日本初の「100万部雑誌」はいかにして生まれたのか?そのウラにいた「宣伝マニア」の存在と「ヒットの秘密」
「講談社の九大雑誌」が日本中の書店に置かれた
講談社の創業者、野間清治は、1910(明治43)年に創刊した雑誌『雄辯』を手始めに、『講談倶楽部』『面白倶楽部』『現代』『婦人倶楽部』『少女倶楽部』『キング』『幼年倶楽部』と9つの雑誌(講談社の九大雑誌)を世に送り出します。昭和前期には、じつに日本の雑誌売り上げ数の8割を講談社の出版物が占め、野間清治は「日本の雑誌王」と呼ばれました。 【写真】チンドン屋まで出動し…ここまでするってマジ?当時の「宣伝風景」 それにしても、なぜ野間清治は、最初の雑誌『雄辯』(1910年2月11日創刊)から『幼年倶楽部』(1925=大正14年12月6日創刊)まで、わずか15年で、そんな“雑誌王国”を築くことができたのでしょう? 講談社(大日本雄辯会講談社)が創業する以前の明治30年代、日本は日清戦争の戦勝により経済力が向上し、出版界も活況を呈していました。1895(明治28)年には『東洋経済新報』が、1897(明治30)年には『実業之日本』が創刊、1899(明治32)年には戦前の論壇をリードした『中央公論』が登場します。 しかしなんといっても明治出版界で王座を占めていたのは、総合雑誌『太陽』をはじめとして『少年世界』『少女世界』『冒険世界』などを出版していた博文館(現・東京堂)でした。 1902(明治35)年には、博文館に負けじと教育出版の雄・金港堂が『文藝界』『教育界』『少年界』『少女界』『軍事界』の“金港堂五大雑誌”を一挙に創刊。さらにその2年後には新潮社から文芸誌『新潮』も生まれています。 こんな百花繚乱の出版界に割って入った野間清治ですが、当時の彼は帝大法科大学に勤務する書記でしかありません。が、野間清治が他の出版人と大きく違っていたこと。それは、彼が“宣伝マニア”だったことなのです。
一文で天下を動かす気概をもて
〈いやしくも天下に大事を行わんとする人は、皆、宣伝に力を用いた様であります。ナポレオンの如き、秀吉の如き、日蓮の如き、皆一種の大宣伝家と私には見られるのであります。/おそらく大なる事業をなした人は、皆味方に対し、敵に対し、内に外に、宣伝ということには大いに力を用いたようであります。/現代の日本には、まだこの点に目覚めている人がまことに少ない。宣伝の真価を知っている人がすこぶる稀であります〉(1932年刊・野間清治著『栄えゆく道』より) 当時、新入社員はまず宣伝部に配属されて、自社出版物の広告文を書く訓練を受け、それから編集部などに回されたのだとか。「宣伝は虚構であってはならぬ。誇張であってはならぬ。あくまで真実でなければならぬ」「広告作成者は常に真剣でなければならぬ」「この一文以て天下を動かし、この広告以て万人を引きつける、というだけの気概が必要である」……野間清治は、こんな訓示をことあるごとに当時の宣伝部員にしていたのです。 そのポリシーは、『雄辯』に続いて創刊された『講談倶楽部』で、さっそく発揮されます。『講談倶楽部』は、当時人気だった講談・落語の高座、それに浪花節を文章化して掲載した、今でいうところのメディアミックス雑誌でした。 ところが、これが「浪花節ごときと講談・落語を同列に扱うとはけしからん」と、人気随一だった講談師たちの逆鱗に触れてしまったのです。そして有力講談師一同と速記者協会は、主要新聞に『講談倶楽部』には断じて寄稿しない、と宣言した“意見広告”を掲載します。 このとき野間清治は謝罪撤回するのではなく、逆に当時としては前代未聞の数十万枚のビラを印刷して、各所で配りまくりました。そのビラに事の顛末を書いた上で〈大改良大刷新の『講談倶楽部』の現れる日をお待ちください〉と宣言したのです。一種の炎上商法といえるかもしれません。両者の対決やいかに?