国民雑誌『キング』誕生から100年…日本初の「100万部雑誌」はいかにして生まれたのか?そのウラにいた「宣伝マニア」の存在と「ヒットの秘密」
完売でも25万円の新雑誌に38万円の宣伝費をかける
にしても、破天荒にもほどがあります。創刊時にかけた宣伝経費は当時の金額で38万円(現在の約9億6000万円)。初版部数は50万部で1冊50銭、売り切ったところで総売上は25万円で、講談社に入ってくる金額はせいぜい18万~20万円なのです。 常識的に考えればありえませんが、結果的に『キング』はロケットスタートに無事成功、そして創刊からわずか2年、1927(昭和2)年新年号で空前の120万部を記録、日本初の100万部雑誌が誕生したのでした。 もちろん、日本国民全員が諸手を挙げて歓迎したわけではありません。都市部の「知識階級」と言われた人々は、あからさまな宣伝に眉をひそめ、一高生や帝大生が『キング』を読んでいると「キング学生」と揶揄されて馬鹿にされたといいます。思えば、テレビもゲームもSNSもブームになったときには「有害論」がさかんに唱えられましたが、それと似たような感覚だったのでしょう。 〈これみよがしな愚直さ、あるいは読者をたじろがせるまでの押し付けがましさこそ、「国民大衆雑誌」『キング』が体現した精神の有り様であるのだから〉とは、2002年に出版された「『キング』の時代 国民大衆雑誌の公共性」(佐藤卓己著・岩波書店)の一節です。ぐうの音も出ません…………。
実は他の雑誌は赤字だった
しかし野間清治は言い切っています。 〈こんな疑問が起こるでしょう。「そんなに宣伝費を使っては割が合わないではないか」。しかし実際はそれがために却って割が合うようになります。たとえば雑誌の編集費1ヵ月10万円としても、5万部しか出ぬ場合は一部2円に当たるわけであります。百万部も出れば、10銭にしか当たらない。宣伝費に金をかけてもそれだけ多く売れるということになれば、結局物が安くできる、読者に十分な奉仕ができるということになる。したがって割も合うのであります〉(『栄えゆく道』「事業と宣伝」より) この発言は、昭和13(1938)年に彼が59歳で急逝した後、予言として的中しました。昭和33(1958)年、社史資料として『キング』創刊時を回想する座談会が組まれ、そこで、こんなエピソードが明かされているのです。 〈『キング』が出る前、『雄辯』『婦人倶楽部』は赤字続きだった。『現代』も創刊当初こそ少し黒字だったが、必要経費がかかるため、すぐ赤字になっていた。実のところ、わが社がもっていたのは『講談倶楽部』と『少年倶楽部』のおかげで、特にドル箱の『講談倶楽部』のおかげで他の雑誌が出せたようなものだった。これで『キング』を出すというのだから、内情はのるかそるかの大ばくちだったわけだ。それが昭和13~14年になったら気味悪いぐらい全部黒字になった。『キング』が出たことによって『現代』や『講談倶楽部』が食われるかと思ったが、意外にもそうはならなかった。『面白倶楽部』を改題して『富士』として出したら、簡単に30万部までいった〉(社史資料『宣伝一般』座談会より抄訳) 当時の社会状況が追い風になったということもあるでしょうが、天下に読書子を殖やす、いえ、むしろ「講談社の読書子を殖やす」ということになったのです。『キング』創刊の翌年、『幼年倶楽部』が創刊され、ここに「講談社の九大雑誌」というキャッチフレーズが出現しました。時は大正から昭和に移り、『キング』を旗艦とする巨大雑誌群が完成したのです。