日本軍兵士の多くは餓死や自決、ときには「処置」も――死者からわかる戦争の実像 #戦争の記憶
傷病兵を殺害する「処置」
さらにひどかったのが「処置」だ。処置とは、上官の命令による傷病兵の殺害のことだ。 「戦闘に敗れ、負傷した兵士は、捕まると捕虜になるおそれがありました。それを防止するために、上官は足手まといの兵士に自決を促し、応じなければ射殺、もしくは衛生兵などが殺害したのです。治療を装い、『これを注射すれば熱が下がる。元気が出る』とうそまでついて毒薬を飲ませたり、注射したりしました」 激戦だったガダルカナル島の参謀次長が撤収前に発信した報告電に、こんな一節がある。 <単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇汞錠(しょうこうじょう。強い毒性を持つ殺菌剤)二錠宛を分配す>(『ガダルカナル作戦の考察』) つまり、動けなくなったものは死を覚悟で現地にとどまり、射撃できるものは射撃をし、それもできないものは薬で自決するという方針だった。 「なぜこのような真似をしたのか。1941年1月8日に東条英機陸軍大臣が発した『戦陣訓』が大きな理由です。それは『生きて虜囚の辱めを受けず』と捕虜となることを禁じていたのです」
1935年3月、日本政府は「俘虜の待遇に関する」ジュネーブ条約(1929年。赤十字条約)を公布。その第一条には、撤退に際して傷病兵を前線から後送できない場合には、衛生要員をつけて、敵の保護に委ねることができるという一節がある。傷病兵が捕虜になることを容認する内容だ。だが、実際の戦場では「戦陣訓」が基本となっていた。 こうした非人道的な処遇は、生き残って復員した元兵士たちを苦しめることになった。
長く語られなかった体験
元兵士たちはそれぞれの生活に戻っていくと、次第に戦友会などの会合も開かれるようになった。自らの体験を語り合い、共感しあえるようにもなったが、戦争体験によって精神のバランスを失った人も少なくなかった。 「たとえば、戦後も音に悩まされている人がいました。船が沈んでいく際の音、亡くなる直前の人が叫ぶ声……と戦地で耳にした音が頭から離れない。また、銃剣で中国兵を刺し、その時の手の感触、銃剣を通して一体になった感覚がずっと残っていた人もいます。あるいは、血や硝煙といった、戦場ならではのにおい。あの戦争であの場所にいたから体験してしまったことがある。私が集めていった体験記や回顧録には、そんな極限状態で研ぎ澄まされた感覚がたくさん記されていました」 こうした体験記は、戦後すぐに存在したわけではない。広く公刊されはじめたのは1980年代以降のことだ。それにはいくつかの理由があった。たとえば、捕虜などで捕まっていれば、その事実が故郷で知られて白い眼で見られる可能性がある。あるいは、上官のひどい仕打ちを語りたくとも、上官本人が生きていれば目にする可能性がある。体験したことを語りたくとも語れない、という状況が戦後しばらく続いた。ただ、葛藤が大きかっただろうと思えたのは、やはり「処置」だった。 「やむを得ず『処置』をした人は罪の意識があり、深く心に傷をもっていました。その心の重荷を語れるまでには、長い時間を要しました。それは相手の遺族への配慮もあるでしょう。遺族に生前の姿を伝えにいくと『あなたは生きて帰ってこられてよかったわね』となじられ、トラウマになってしまった人もいる。最後に処置をしたとなればなおさらです。それでも、この処置の事実を残さないといけないと思って書いた人もいる。回想記で処置について読めるようになったのは80年代以降ですが、それだけ時間が必要だったのだと思います」