日本軍兵士の多くは餓死や自決、ときには「処置」も――死者からわかる戦争の実像 #戦争の記憶
操縦士の扱いについても粗雑だったという。パプアニューギニアやラバウルなど南方戦線の飛行場に配備されたパイロットには、マラリアなどに罹患する人もいた。医療や栄養状態も不十分なため、連日の戦闘に耐えうる体力もなかった。そうした病兵に非人道的な扱いをした上官がいたと吉田氏は言う。 「『ブドウ糖だ』『元気が出る』といってヒロポン(覚醒剤)を与えていた疑いが強い。そうして興奮させた状態で『特攻』させた。そんな方法で、ベテランのパイロットさえ使い捨てにした。ひどい人命軽視です。一方、アメリカは戦闘機が撃ち落とされると、パラシュートで脱出した兵隊を潜水艦や艦船がレスキューし、最後の一人まで助ける。それを見ていた日本兵は、この差は何だろう、とショックを受けていた」 さらにひどい実情もあった。「自決」だ。
捕虜よりも自決
<「今日は体調がいいから先に行くぜ」と出ていった兵が、道の真中で自決していた。あとからこの道を(戦友が)通るから(自分の遺体を)始末してくれるとやったことだ。(中略)分隊の足手まといになることは彼の性格から許さなかったのだろう>(『神に見放された男たち』) 目撃した人によれば、この兵士は小銃の引き金を足の親指で引いて自決を成し遂げたのだという。 自決に関する戦時中のデータは残っていないが、部隊史や戦記には自決の存在がじつに数多く記録されていると吉田氏は言う。
「たとえば渡辺謙さんが出演した映画『硫黄島からの手紙』でも、追い込まれた兵が手榴弾で自爆するシーンがありました。ああいうことは戦争末期には多かった。捕虜になるのであれば、自決する。それは本人の意思というより、上官から言われていたことでもありました」 硫黄島の戦闘で生き残った鈴木栄之助は当時の死者の内訳をこう記している。 <敵弾で戦死したと思われるのは三〇%程度。残り七割の日本兵は次のような比率で死んだと思う。六割 自殺(注射で殺してくれと頼んで楽にしてもらったものを含む)。一割 他殺(お前が捕虜になるなら殺すというもの)。一部 事故死(暴発死、対戦車戦闘訓練時の死等)>(『小笠原兵団の最後』) 自決までいかず、自傷というケースも増えていったと将校も書いている。 <「ああ、ひと思いに、頭に一発ポンと来てくれんかのう」と壕の中で自棄の言葉がささやかれるようになった頃、ポツポツ自傷者が出始めた>(井上咸『敵・戦友・人間』)