日本軍兵士の多くは餓死や自決、ときには「処置」も――死者からわかる戦争の実像 #戦争の記憶
栄養失調とマラリアの証言
吉田氏が集めた手記にもそんな記載が複数残っている。 <(一九四四年)四月ごろから急に栄養失調症が増えてき、栄養失調による死者、すなわち餓死者が出始めた。マラリアにかかると四〇度の高熱が出てそれが一週間ぐらいつづく。それで体力が弱まったところへ食糧がなく、極度の栄養失調に陥って、その後は、薬も食事も、ぜんぜん受け付けない状態になって死んでゆく──それが典型的な餓死のコースだった>(『ソロモンの陸戦隊 佐世保鎮守府第六特別陸戦隊戦記』) 南太平洋のソロモン諸島に派遣された同部隊は、1943年末から補給が途絶えていたという。無謀な戦線拡大に加え、米軍の攻撃によって船による補給路が断たれたことが原因だった。南方戦線では、食料や医薬品、弾薬などが途絶えていた。 前線部隊に軍需品が届く安着率は1942年の96%から、1943年は83%、1945年は51%に低下。山が連なるインドとミャンマーの国境地帯や、1944年3月からのビルマ(現・ミャンマー)のインパール作戦では死者が相次ぎ、日本兵の遺体で埋まった撤退路は「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれた。 ただ、日本兵が飢えていたのは、補給路が途絶えたからだけではなく、そもそも兵士の命を重視していない軍の方針があった。
安全性が後回しにされた戦闘機
千葉哲夫という元海軍の男性は戦後、アメリカに行き、戦争当時の潜水艦を見て、ショックを受けた。日本の艦船ではすし詰めで、寝る場所も食べる場所も一緒が当たり前だったが、アメリカの潜水艦では居住性に配慮されていた。千葉はその時の驚きを『鎮魂』に記している。 <日本にはどこか人間軽視の思想があって、その点が米国とは格段の落差があったと思います。そのことが犠牲を大きくしたものであらうと考えます> 吉田氏も、兵士の命に対する考えがアメリカではまったく違っていたと指摘する。 「これは戦闘機など航空機にも言えることで、アメリカは操縦席の回りを防弾板で手厚くガードしたり、燃料タンクの自動消火装置を装備したりしていた。パイロットの命を第一に考えての設計です。一方、日本の戦闘機は旋回性や速度など飛行性能を引き出すため、機体を軽量化し、重たい防弾板を排除。安全性を後回しにしたのです。だから、操縦の運動性能は高いけれど、被弾すると操縦士はやられてしまう。撃墜されることも多かったです」