「最寄り駅」じゃない方の“ナゾの登山駅”「富士山」には何がある?
そうした講と御師の一大拠点が、いまの富士吉田。つまり、富士吉田の町は富士登山の拠点、などという言葉で片付けられるようなものではなく、富士信仰の一大拠点だったというわけだ。 いまでも国道沿いには御師の屋敷があちこちに残っている。近年の富士山というと、登山はもちろんのこと、裾野でのキャンプやら何やら、レジャーのイメージも強い。だが、もとを辿れば富士山は信仰の対象。富士吉田は、いわば宗教都市なのである。
かつては鳥居の下を路面電車っぽいものが走っていた…?
このあたりで、富士山駅前の金鳥居まで戻って来た。外国人観光客が鳥居と富士山を一枚の写真に収めようと四苦八苦していた。鳥居も大きいが富士山も大きい。それに、南向きだからどうしたって逆光になる。うまく写真を撮るのにはかなり工夫が必要なのだろう。 そんな金鳥居の足元には、説明書きとともに昔の様子を伝える古写真があった。そこには、何やら鳥居の下を路面電車のようなものが走っている。もちろんいまの金鳥居の下にはそんなものは走っていない。いったい、何なのだろうか。 実は、明治に入ってから富士吉田周辺を含む富士山麓にはたくさんの馬車軌道が敷設されていた。「富士みち」とも称される金鳥居の国道も例に漏れず、のちに富士急行線に役割を引き継ぐことになる、大月方面からの馬車軌道があった。 他にも、富士の裾野を横断して御殿場方面まで通じるものもあり、1903年には富士馬車鉄道・都留馬車鉄道・御殿場馬車鉄道が接続。裾野を馬に牽かれた小さな車両が行き交っていた。近代文明の象徴たる鉄道の力を借りて、少しでも富士登山をラクにして、ついでに富士山麓の開発も促そうというもくろみだったのだろうか。 ただ、標高の高い富士山麓は勾配もキツく、一般的な鉄道はなかなか実現しなかった。 ようやく昭和になってからの1929年、富士山麓電気鉄道が開業。大月~富士吉田間を結ぶ。富士山麓電気鉄道が現在の富士急行線、富士吉田駅が現在の富士山駅だ。そうして吉田の町は、鉄道の時代になっても富士登山の拠点という役割を担い続けていまに至っている。