【89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉⑥】10年先の自分を思い描いて努力する!
89歳にして美容研究家であり、ふたつの会社の経営者として現役で活躍する小林照子さんの人生を巡る「言葉」の連載「89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉」。今回、お話しいただいたのは、「10年先の自分を思い描いて努力する」ことについてだ。 山形で過ごした中学・高校時代は、一家を支えながら演劇に夢中になっていた小林さん。8年の介護の末、養母が他界すると、思いがけずして「東京で舞台メイクを勉強したい」という夢の第一歩を踏み出せることに。1953年、小林さんが18歳の時のことだ。順風満帆ではなかった東京生活のスタート。そこから得たことをうかがった。
誠実に生きていれば必ずチャンスはやってくる
脊椎カリエスにかかり寝たきりになっていた養母は、小林さんが18歳のときに亡くなった。 「家族だけの小さな葬儀をすませた後、まもなくして、突然、地元の住職さんが奥さんと一緒に家にやってきました。 そして、『照子さん、うちの息子を許してやってください。時計はすぐに川に捨ててしまったそうです。申し訳ございませんが、これで新しい時計を買ってください』と言いながら、お金が入った封筒を差し出したのです。私にはまったく身に覚えがなく、『いったいなんのお話ですか?』と、ひとまずその封筒を押し返しました。 お話を伺うと、以前、私が小学校の給仕をしていたときのことです。先生のお手伝いで、子どもたちの染色の授業の準備をしていました。その際に外した腕時計が紛失したのですが、実はそれは住職の息子さんがいたずらして持ち帰り、その後すぐに怖くなって川に捨てたというのです。 私はどこかに置き忘れた自分の落ち度だと思って諦めていました。しかもその時計はもう壊れて動いていなかったので、大して気にもとめていなかったのです。そうお話しして、『お金などいただくわけにはいかない』と、何度もお断りしました。しかし、先方も『それでは私たちが困ります』の一点張り。封筒が畳の上を何度も行ったり来たりしました」 根負けして封筒を受け取り、開けてみると、そこには想像以上の金額が入っていたそう。 「もしかしたら、息子の不祥事を誰かに話されることを恐れて、私たちにこの町から出て行ってほしかったのかもしれません。そのくらいのまとまったお金だったのです。とても驚きましたが、これがあれば養母をお墓に入れて弔うことができる。早く母の魂を安らかに眠らせてあげたい…という気持ちに切り替わり、謹んでいただくことにしました。 そして、まもなくして養母のお骨を抱いて、養父の故郷である山梨に向かいました。納骨をすませ、久々に東京にいる実兄や継母にも会い、そのとき、両親の離婚後生き別れた実母にもこっそり会うことができました。 実母は実父と別れたあと、幼い妹を連れて再婚。男の子を産みましたが、また離婚して看護師や家政婦をしながら、二人の子どもを抱えて暮らしていたようです。 久しぶりに東京の空気に触れた私は、あの『東京で舞台メイクの勉強をしたい』という気持ちが改めて大きく膨らみました」 そして山形に戻った小林さんが養父にその旨を話したところ、「照子にはこれまで本当に苦労をかけてしまった。これからは照子がやりたいことをやりなさい。手に職をつけるにはまたとないチャンスだ」と快く夢の後押しをしてくれたのだ。 「家の状況から、一時は不可能と諦めかけたことでしたが、確固たる信念と希望を持ち続ければ必ずかなうのだと、このとき思いました。 実は昔、こんなことがありました。私が16歳のある日のこと、東京から徒歩旅行をしていた実兄の友人が訪ねてきました。そのとき、『東京に戻りたい! 田舎では私の夢はかなえられない』と訴えた私に、『夢は持ち続ければ必ずかなうよ。諦めてはだめだよ』と励ましてくれたのです。 私はこの言葉を今まで人生でたくさんの人に言い続けてきましたが、どうもこのときの兄の友人の発言が元になっていたようです。そのことをつい最近まで忘れていました(笑)。こうしてようやく夢の種がまかれたのです。それを導いてくれたのは、あの時計事件でいただいたお金があってこそ。まさにその神の手に深く感謝しました。 1955年(昭和30年)、私は雪解けを待たずに、養父を山形に残して単身、東京に向かいました。私が20歳の春でした」