パリオリンピックを一切見なかった理由
有職故実について別の言い方をするなら、過去と未来の連続の中に現在をプレゼンテーションする技術と言えようか。 日本の場合、有職故実の専門家は、皇室の周辺、歴史学や古典学などのアカデミア、神社や寺の関係者、能や茶道などの世界にいる。古来より権力者は、有職故実の専門家とのコネクションを持ち、必要に応じて召集し、その知恵を借りてきた。一番最近の例は「令和」という元号が制定された時だろう。時代を象徴し、しかもその文字を日常で使用することを誰もが納得する漢字2文字を、古典文献の中から選ばねばならないのだ。「令和」という2文字を選ぶのに、いったいどれだけ広範な知識が必要だったか、想像を絶する。 1964年の東京オリンピック開会式は、この有職故実を踏まえるということが、かなりしっかりできていたのではないかと思う。 ある程度自分が分かるのは音楽の選定ぐらいなのだが、1964年10月10日の開会式に合わせて新規に作曲された音楽は4曲あった。團伊玖磨「オリンピック序曲」、黛敏郎「オリンピック・カンパノロジー」、古関裕而「オリンピック・マーチ」、今井光也「オリンピック東京大会ファンファーレ」だ。 團伊玖磨の曲は、明治初年から1964年までの日本の西洋音楽受容の歴史が生み出した精華だ。黛の「オリンピック・カンパノロジー」は当時最新のエレクトロニクスを駆使した電子音楽で、未来に向けた日本の科学技術の象徴。親しみやすくも格調高い古関のマーチは日本のポピュラー音楽の中の芸術性をアピールする。 そして公募の中から選ばれた今井の曲は、通常は長調である式典用ファンファーレの中で、短調、それも自然短音階を使った特異なファンファーレであり「欧米とは異なる、東洋の国日本」を印象付ける。 誰が仕掛けたかは知らないが、見事なラインアップだ。 ●それに引き換え2021年は…… 2016年の時点で、東京オリンピックは全く期待できないと判断したので、2021年の開催期間中、私は一切オリンピックの情報を遮断して過ごした。ただでさえ新型コロナ感染症のパンデミック2年目であり、オリンピックで東京に人が集まれば、それだけで感染爆発が起きる可能性もなきにもあらずだ。期待できないどころか社会に仇為す(あだなす)可能性もあるわけで、そんなものに心を引っかき回されるのは嫌だったのである。 今回、この原稿を書くにあたって、国際オリンピック委員会(IOC)が公開している2021年の東京オリンピック開会式の4時間以上の動画を見たのだが、“手持ちの表現手段”をつなぎ合わせるのが精いっぱいで、開会式として過去と未来を踏まえた一つのパースペクティブを提示するに至っていない、という印象を受けた。 一つ一つのシーケンスはおそらくは個々の関係者が手持ちの表現手段を持ち出しで演出していて、それなりに見られる部分もある。が、全体としては脈絡に欠け、美しくもないし、面白くも興味深くもない。 つまり、「有職故実を生かした、日本という国を歴史的パースペクティブの中に位置付ける式典」に全くなっていない。 そういえば開会式の演出も直前までもめたのだった、と思い出す。演出は当初、狂言師の野村萬斎氏を中心としたチームが行う予定だった。ところが開会まで7カ月となった2020年12月に野村氏のチームは降板。後を継いだのは電通出身のクリエーティブディレクター、佐々木宏氏だったが、こちらも2021年3月にスキャンダルが発生して降板。後任の元お笑い芸人の小林賢太郎氏は、開会式直前の2021年7月22日に過去のコントでナチス・ドイツのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を揶揄(やゆ)する発言があったことが判明してこちらも解任。その直前の7月19日には、楽曲担当のミュージシャンの小山田圭吾氏が過去に雑誌で同級生や障害者をいじめた経験を語っていたとして解任されている。 責任者が誰かも分からないような混乱の中で、関係者が破綻を来さぬように最大限努力した結果が、「個々のシーケンスには見るべきものもあるが、全体の脈絡が見えない」式典となったのだろう。 パリ・オリンピックに引っかけて、1964年と、2021年の東京オリンピックを振り返ってみた。はっきりと言えることは2つあると思う。