パリオリンピックを一切見なかった理由
まず――今更指摘するのも恥ずかしい事実だろうが――オリンピックそのものが、競技会という以上に、国際的なカネもうけの手段と化していることだ。北半球が一番暑い7月下旬から8月上旬にかけて開催する理由が、「他の世界的スポーツ競技会が開催されない時期で、世界的に放送の視聴率が期待できる」というのは、競技者無視も甚だしい。そもそも1964年東京オリンピックは、今ほど地球温暖化が進行していない状態であったのに、スポーツにとっての最高の季節として10月に開催されているのである。 そのオリンピックに、「温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」というすぐにバレる大嘘を堂々誘致パンフレットに書き込んで擦り寄っていった日本の状況も、「競技者が最高のコンディションで競技に臨める環境を用意する」以上に“たいせつなこと”を抱えていたと考えるべきだろう。一言でいえば「カネ」である。1964年のような切実な動機もないのにオリンピックを開催したかったのは、そこで多額のカネが動くからだろう。 1984年のロサンゼルス五輪以降、五輪はどんどんカネの動く「もうかるイベント」へと変質していった。 一般論としてカネだけが動機の仕事はそれだけで腐る。いかに少ない手間で高い収益を上げるかが唯一の目的となり「良い仕事をする」「意義ある仕事をする」「後世の規範となる仕事をする」といった意識がおろそかになるからだ。 オリンピックは今の開催形態に、そろそろ引導を渡す時が来ているなと感じる。開催時期にこだわるなら、7、8月に冬となる南半球に開催地を限定するなどしなくては、競技者の健康に問題が出てくるだろう。 もっと重大なことは、日本の権力というものがどうやら有職故実を使いこなす能力を失っているらしいということだ。オリンピックなら「もう来るな」で締め出すことができるが、権力の能力喪失は日本に住む限り避けようがない。 このことは、日本の権力の中から教養が失われているということを意味する。いくら有職故実の専門家が集められて「こうすればいい」と権力に進言しても、権力の側が進言の内容を「おお、それは良いことだ」と理解できなければ、専門家の知識は無駄になる。 「儀式ぐらいどうってことない」と思うのは間違いだ。時として有職故実の失敗は権力にとって致命傷になり得る。 その実例は、おそらく日本人ならたいてい知っている。豊臣家は方広寺に寄進した梵鐘(ぼんしょう)に「国家安康」と刻むという有職故実の失敗から、大坂冬の陣、夏の陣が発生して滅亡したのであった。 ●1970年の大阪万博がなぜ成功したのか そして今、日本は2025年にまたも「過去と未来の連続の中に現在をプレゼンテーションする」ことが必須のイベントを開催しようとしている。2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)だ。 1964年の東京オリンピックと同様に、EXPO'70、大阪万博は歴史的大成功をおさめた。 EXPO'70では通商産業省(現経済産業省)やら大阪府やらが博覧会開催に向けて動いていたところに、「この博覧会には理念がない」という危機感を抱いた梅棹忠夫(文化人類学者)、小松左京(SF作家)、加藤秀俊(社会学者)といった関西を中心にした文化人・学識経験者たちが自発的に『「万国博」を考える会』を結成。「人類の進歩と調和」という基本理念をつくり上げて、博覧会のプロデュースに積極的に関与していった。 そして権力の側も彼らの有用性を認めて、積極的な関与を歓迎した。彼らの活動がなければ、お祭り広場も太陽の塔もなかったのだ。 EXPO'70における有職故実は、彼ら自発的に立ち上がった文化人・学識経験者たちが担っており、それ故博覧会は大成功を収めたのだった。 今回、そのような文化人たちの動きはない。それどころか、2020東京五輪と同じく、聞こえてくるのはトラブルの話ばかりだ。埋め立て地の会場は地下からメタンガスが噴出しており爆発事故を起こした。シンボルとなる木造リングは火災の危険性が指摘されている。会場へのアクセス手段が不十分という指摘も出ている。目玉であったはずの「空飛ぶ自動車」の運行は、実運用ではなく試験飛行にとどまる見通しである。 正直、私は今からでも中止すべきだと考えている。2020東京五輪と同じだ。それでも開催するなら、せめて死者の発生する事故だけは起きませんように、と祈っている。「過去と未来の連続の中に現在をプレゼンテーションする」公的なイベントでの死者の発生は、日本の没落を世界中に決定的な形で印象付けることになるのだから。
松浦 晋也