パリオリンピックを一切見なかった理由
全世界からそれぞれの過去の経緯――それは悲しいものもつらいものもあるだろう――を抱えた人々が集まって、ひととき、「平和」という全人類共通の夢を見ることこそがオリンピックだ。市川監督は、その観点から、オリンピック前の建設ブームに沸く東京の風景や、競技中の観客なども撮影し、映画に組み込んでいった。 そのことを端的に象徴するのが、黛敏郎の手によるタイトル音楽ではなかろうか。市川監督は黛に、「オリンピックは世界中の人々が集まり、赤ん坊になるのだから子守歌を使いたい」と語った。「オリンピックで競技者は、すべての先入観を捨てた一人の人間として競技に挑むのだから」ということなのだろう。 それに応じて黛は、タイトル音楽で、福島に伝わる子守歌のメロディーを使用した。伝統的な子守歌のシンプルなメロディーに、過去から未来へのつながりを象徴させたのである。オリンピックというイベントを、過去と未来とをつなぐ「現在」として捉え、歴史のパースペクティブの中に、オリンピックを位置付けようとしたわけだ。 リーフェンシュタール監督が自らの内側にあるセンスのままにオリンピックの中に映像美と肉体美を見いだしてフィルムに定着していった「民族の祭典」に対して、「東京オリンピック」は、歴史のパースペクティブの中のつかの間の夢としてのオリンピックを描き出した。参加する競技者だけのものではなく、運営から観客、さらには同じ時代を生きるすべての人々にとってのオリンピックという視点が一貫している。 もちろん、「すべての人々」の中には、「まあ、ここらへんに住んでいると、“川向こう”でなんかやっているなあ、という印象でしたなあ」と語る江東区の古老も含まれているのである。 自分がきちんと「東京オリンピック」を見たのは、30代半ばになってからだった。祖母に連れられて映画館に行ってから30年以上もたっている。大人になってから見ると、確かに「東京オリンピック」は大変な傑作だった。 同時に、ある程度社会の仕組みが分かった大人になってからの鑑賞だったので、映画の中に別の視点も見いだすこともできた。 「これは、1960年代前半という時代が市川崑という才能につくらせた映画だ」という視点だ。 記録映画が大傑作になるだけの内実を、1964年の東京オリンピックは蔵していた。巨大イベントが成功するには、イベントを必要とする社会状況と、社会の内側からの盛り上がりが必要だ。1964年の東京五輪にはその両方があった。 ●1964年の東京五輪には「語るべきこと」があった 1964年の東京オリンピックには、世界的な運動競技会というだけでなく、戦災から復興した東京の世界的なお披露目という意味があった。 この時期、敗戦後の経済復興において道しるべとなる大きな変化が立て続けに起きている。 まず1963年に日本はGATT12条国から11条国に移行した。1947年に自由貿易の推進を目的としてつくられた国際的な貿易の枠組み「関税および貿易に関する一般協定」(General Agreement on Tariffs and Trade:GATT)は、11条で、自由貿易体制を規定しており、基本的に国が規制を行わない自由貿易体制を取る国をGATT11条国という。GATT11条国となったことで、敗戦日本は、本格的に世界経済へと復帰した。 また1964年に、日本はIMF(国際通貨基金)8条国となっている。IMF8条国は、為替をその国の政府が恣意で管理せずに国際的な為替市場に委ねる国のことをいう。つまり政策的に安い為替レートを設定して雪崩の如(ごと)く輸出して外貨を獲得するというようなことができなくなる。日本は同じく1964年にOECD(経済協力開発機構)にも加盟した。OECD加盟は、資本の自由化を意味する。これにより海外資本が日本で会社を設立することなどが可能になった。 つまり、1964年の東京五輪の時期に、日本は次々と国際的な開放経済体制への復帰を進めていったのだ。 1964年東京オリンピックには、それを世界中にお披露目し、戦争からの日本の復興を印象付けたいという、当時の日本社会及び日本政府の側に強い動機があった。だからこそ五輪開催には力が入ったし、大会は成功したのである。また、そのように強い動機に支えられた大会だったからこそ、市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」は傑作となり得たのである。 では、2021年の東京オリンピックの場合はどうだったか。