学識の高さで大きく出世した高階貴子
こうしたなか、貴子を見初めたのが、藤原北家九条流の嫡男である藤原道隆(みちたか)だった。父の成忠は当初、道隆との交際に反対していたようだが、やがて道隆の才覚を知り、やがて出世する人物と見込むようになったとの逸話が残っている。 道隆の妻となった貴子は、伊周、定子、隆家(たかいえ)など、3男4女をもうけ、道隆ら中関白家の繁栄の礎を築いた。 990(永祚2)年に夫の道隆が関白に就任したことは、父・成忠の見込んだ通りといえるかもしれない。さらに、娘の定子が一条天皇の中宮となると、息子の伊周が内大臣、隆家が中納言に昇進。父の成忠も従二位と朝臣の姓を賜るなど、貴子の周囲はにわかに栄達を重ねる局面を迎えた。 なお、定子に仕えた清少納言は自著『枕草子』のなかで、その高い教養を称賛している。定子だけでなく、伊周、隆家にも学問に秀でた一面が認められており、これはつまり、貴子の教育の賜物ということだろう。 ところが、995(長徳元)年に夫・道隆が病死。輝かしい未来が約束されていたかに見えた道隆の一族・中関白家は、ここから急激に衰退を迎える。 叔父にあたる藤原道長との激しい権力闘争を繰り広げた末に、伊周・隆家は不祥事を起こした責めを受けて996(長徳2)年に左遷。一条天皇にこの上ない寵愛を受けていた定子も内裏から退出させられることとなった。 貴子は地方に左遷される伊周の同行を要望したものの朝廷に受け入れられず、伊周の乗る車に取り付いてまで懇願したが、叶えられなかったという。 その後、まもなくして病に倒れる。同年10月、没落していく中関白家を憂いながら死去した。享年は50前後と推定されている。 比類のない漢詩の才は広く認められるところであり、紫式部や清少納言などと並び女房三十六歌仙のひとりに数えられ、『拾遺和歌集』などに6首が入集した。なかでも、次の歌が有名である。 「忘れじの 行末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな」 (いつまでも忘れないという言葉も、未来永劫にわたって変わらないということはないでしょう。それならば、いっそ、今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに) この歌は『小倉百人一首』だけでなく、『新古今和歌集』にも選ばれるなど、広く知られている。
小野 雅彦