モアラビーチには遊びにくるジュゴンもニューカレドニアの素顔に出会う旅
#294 Côte Estグランドテール島東海岸(ニューカレドニア)
ニューカレドニアの本島、グランドテール島。これまで首都ヌメアは何度か訪れていましたが、その先へは踏み入れたことがありませんでした。南北400キロ、東西約50キロのフランスパンのような細長い島は、まさに冒険の宝庫。今回は東海岸を進みます。 【画像】展望台から見下ろしたボタメレのビーチが絶景! 西海岸のラフォアから、島の中央部を走る山脈を越えて東海岸へ。これまでの乾いたブッシュから、トロピカルな熱帯雨林へ、眺めががらりと変わります。また一歩、グランドテール島の深部へ分け入った気分です。 聞くところによると、ニューカレドニアの人口密度は1平方キロメートルあたり15人。ヌメアの人の多さを鑑みれば、このあたりは1平方キロメートルあたり2人といったところでしょうか? 東海岸の探訪は、ティオの町からスタート。1864年にジュール・ガルニエによってニッケルが発見されたこの場所は、ニューカレドニアの基幹産業であるニッケル産業のはじまりの地です。 かつての鉱山長の住居と工場だった建物を改装した「ニッケル鉱山博物館」では、この町におけるニッケル産業の軌跡を知ることができます。当時はこの建物を中心に、町の繁栄が広がっていったそうです。 一番古い鉱山は、1875年に採掘がはじまったプラトー。当時はニッケルの含有量がきわめて高かったため、目視で採掘場所を決めることができたとか。鉱山労働者として、ベトナムや中国、バヌアツなど各国から多くの移民がニューカレドニアへ渡り、プラトーに住み込んで過酷な採掘作業に従事していたそうです。
墓標には「鹿児島」や「沖縄」の文字が
当時の様子を伝える写真の中に、日本からの移民たちの集合写真がありました。着物姿の男性たちの口が一文字に結ばれているのは、故郷から遠く離れたこの地で生きていくという決意の表れなのでしょうか。彼らの中には地元の女性と結婚し、鉱山の労働から抜け出して農業や商店を自ら営むようになった人も。 けれど1930年代に入ると、世界恐慌や第二次世界大戦によって状況は一変。日本人移民はそれまでに築いた財産を没収され、オーストラリアの強制収容所へ、あるいは日本へ強制送還された人も。 山間の日本人墓地をたずねると、鹿児島や沖縄出身と刻まれた墓標がいくつも並んでいました。明治期から昭和にかけて、ニューカレドニアという異国で奮闘した先人たち。日本人移民がニューカレドニアにいたことを、今回はじめて知りました。 ニッケル産業は今では最盛期の賑わいはないものの、途切れることなく続いています。ボタメールのビーチは、「ニッケル鉱山博物館」で見た100年ほど前の写真と地形が変わっておらず、今も沖にはニッケルの積み下ろしをするタンカーが停泊しています。 かつてはビーチのすぐ近くにニッケルを運ぶための鉄道の駅もあったそうで、波打ち際から数メートル先の水深15メートル付近には2隻の輸送船も沈んでいるとか。水辺には人の行き来も喧噪もなく、穏やかに波が打ち寄せています。