池田屋事件で名を馳せた記憶 東海道、中山道の合流・分岐点の宿場町に残る面影 誠の足跡 新選組を行く
江戸時代、東海道と中山道の合流・分岐点に位置した草津宿(滋賀県草津市)。江戸から京へ戻る途中の新選組の一行が、慶応元(1865)年に宿泊したことでも知られる。新旧が交錯する街には、池田屋事件で名をはせた新選組の記憶が残されていた。 【写真】旧東海道沿いにある史跡草津宿本陣。周囲はマンションが並び、新旧が交錯する街並みになっている 《右東海道いせみち》《左中仙道美のぢ》 JR草津駅の南約500メートル、かつて江戸と京を結んだ東海道と中山道を示す石造りの追分道標(高さ約4メートル)があった。文化13(1816)年に建立され、多くの旅人を案内してきた。 東海道五十三次のうち、52番目の宿場町として栄えた草津宿。天保14(1843)年には、民家や商家などが586軒あり、そのうち72軒が旅籠(はたご)だった。 道標のすぐ近く、旧東海道沿いにたたずむのが、当時2軒あった本陣のうち現存する田中七左衛門本陣だ。公家や参勤交代の大名らが休憩や宿泊に利用し、将軍・徳川家茂との結婚で江戸に向かう途中だった皇女和宮も昼食をとった場所。昭和24年に国史跡に指定され、平成8年から一般公開されている。 「元治元(1864)年の池田屋事件後に江戸で隊士募集した土方歳三らが京への帰り道に宿泊したのがこの本陣だった」。同行する幕末維新史研究家の木村幸比古さん(75)が、重厚な門を見上げた。 大福帳の記録 《 新選組 土方歳三様 斎藤一(はじめ)様 伊藤甲子太郎(かしたろう)様 藤堂平助様》 本陣に残された大福(だいふく)帳(縦39センチ、横16センチ)にはこう墨書されている。大福帳は宿帳と出納帳を兼ねたもので、元禄~明治時代の計181冊が木箱に保管されていた。そのうち、新選組の記録が残るのは、慶応元年5月9日。土方ら4人の氏名のほか、総勢32人が利用し、1人あたり250文(現在の数千円程度)と、20本のろうそく代が払われた旨が記されていた。 木村さんによると当時、心づけは部屋の燭台、ろうそくの数で支払う習わしがあったが、「この場合のろうそくは花代の隠語だったのかも…」。江戸での隊士募集では、水戸学を修めた伊東甲子太郎一派が入隊を決め、この旅に同行していた。「江戸で鳴らした剣豪を引き入れ、京を目前に歓迎会を催したのではないか」と推測する。 「重要な発見」