「セガ」と「サミー」の経営統合の裏に、若い2代目の苦労 異なる社風に飛び込み、セガのスマホゲーム領域を開拓
◆証券会社で起業のタネを探し、ゆくゆくは起業したかった
サミーは、東京板橋の小さな町工場として始まった。 父・里見治氏は、一代でサミーをパチンコ・パチスロを始めとした遊技機のトップメーカーにまで押し上げた。 工場横の自宅で育った息子・治紀氏は、自身でも起業を志し、大学卒業後は証券会社に入社した。 ----当時の国際証券に入社したのは、起業するきっかけをつかむためですか? そうです。 いろんなビジネスや経営者を見て、自分はどういうビジネスを立ち上げたいのか探すために入ったのが正直なところです。 だから、父親の会社を継ぐための準備というつもりはありませんでした。 ----お父様から後継の打診などはあったのですか? そんな話は一度もなかったですね。 証券会社に入社するときも「どうせなら外資系がいいぞ」と言っていたくらいです。 外資系は試験で落ちて行けませんでしたが。
◆世界的なゲームメーカーと合併するための緩衝材に
----証券会社に入社して3年後の2004年、「サミー」と「セガ」の合併話が持ち上がりましたが、それに大きく関わったそうですね。 はい、合併のアドバイザーになったのが、当時勤めていた証券会社でした。 証券会社側も気を遣ってくれて、アドバイザリーチームの末席に入れてもらいました。 すると、当時のセガの社長から「携帯番号を教えてくれ」と言われ、夜に電話がかかってきました。 「君、里見の息子だろう。親父にこれを伝えてくれ」と。 何かというと、「社名は譲れない。セガサミーじゃだめだ。合併後は会社名をセガにしたい」とか、「持ち株比率がなんだ」とか。 本来偉い人同士で交渉する話を、当時23、4歳の私がセガの社長とうちの父親の間に入って進めていました。 ----どういう気持ちでしたか。 合併を成就させたいなっていう気持ちがありました。一方でセガという社名にして合併したらサミーが消滅してしまう。 そのときの父親の気持ちもわかるなと。 ----セガ側は名前を譲らないわけですね。 セガは、当時経営が苦しかったとはいえ、世界で知られている知名度も歴史もありました。 そこがやっぱり一番譲れないポイントだったと思いますが、父親的にはサミーの名を残したかったのです。 サミーの社名は、「里見」から来ていますので。 ----合併はどのように進んだのでしょうか。 合併自体はうまくいかなかったんです。 いろんな条件や意見があったりして、1度は新聞発表しましたが、破談したんです。 そして、半年後に合併ではなく経営統合という形になりました。 ----株式を取得し、純然たるセガとサミーの会社になったのですね。 そうです。 そのとき初めて、私は父親の会社を客観的に見ることになりました。 父から「来い」とは言われませんでしたが、セガとの統合もあり、当時のサミーの最年少の役員から「サミーとしてもチャレンジしていく時期だから手伝ってくれ」と説得され、私はサミーに入りました。 だから、会社を再建しようとか、社長になろうという強い意志というより、説得されたから1回入るという感じでしたね。