現代とは違った理由で人気スポットだった江戸時代の「江戸城」⁉ どのような理由で人を集めた?
現在、全国には人気の観光スポットが数多く存在する。江戸時代にもそういった場所はあったが、現在とは違う場所であったり、同じ場所でも違った理由で人気だったりしていたらしい。ここでは、そういった江戸時代の人気スポットに迫る。第一回目は「江戸城」。江戸城は江戸時代、早朝から大勢の人々が、華やかな大名行列を一目見ようと詰めかけ、その人々を相手に商売をする商人が集まるほど賑わいを見せた。 皆さんは、東京の観光スポットというとどこを思い浮かべるのだろうか。高級店が軒を並べる銀座、オタクの聖地秋葉原、東京に隣接する夢の国などいろいろあるだろう。この記事を読んでいる人の中には、現在皇居となっている江戸城跡をあげる人がいるかもしれない。 実は、この江戸城こそ、江戸時代最も人気のあった観光スポットであった。といっても江戸城の中にはごく限られた人しか入ることができない。正確には江戸城の正面入り口であった大手門周辺だ。大手門は、戦災で焼失してしまったものの、昭和41年(1966)に再建されて、往時の姿を取り戻している。とはいえ、大手門は江戸城の他の門と比べて特別大きいとか装飾が華美ということではない。 ではなぜ人気の観光スポットだったのかというと、この前にいれば登城してくる大名行列を見ることができたからだ。というのも、大名たちが江戸城に登城する際には、ふつう大手門を使用する。つまり、今のスターの入りまちをするように、大名の入りまちをするスポットとして人気があったのである。 江戸にいる大名たちにとって最も重要な仕事が、年始や五節句。徳川家康が幕府を開いたことを祝う8月1日の八朔(はっさく)などの幕府が定めた行事や、毎月1日、15日、28日の月次御礼と呼ばれる日に、江戸城の本丸御殿において、将軍に拝謁(はいえつ)することであった。拝謁とは簡単にいえば、将軍にご挨拶することだが、1人で出かけて行って「こんにちは、ご機嫌はいかがですか」というわけにはいかない。武士は、正式な外出には石高に応じた供を連れて行かなくてはならない。 たとえば、安芸広島藩主を務めた浅野家は42万石強の石高で80人ほどを引き連れて登城した。もっともこの80人というのは多い方なので、1家50人、参勤交代で国元に帰っている大名もいたから200家としても約1万人が一斉に江戸城に向かう。届け出なしで休んだり、遅刻したりすれば、最悪の場合お家断絶もあったというから、どの大名も必死である。しかも、御三家などかち合うとめんどくさい相手もおり、こうした相手を避けるためにも、決められた時間よりも何時間も前に屋敷を出発することになっていた。たとえば、現在の国土交通省という皇居から目と鼻の先にあった安芸浅野家でもその2時間前には屋敷を出発していたという。 朝早いとはいっても、江戸城に着くまで誰に見られているかわからない。いや、江戸城周辺では入りまちをしている人がいるのを知っているからこそ、ここぞとばかりに家の威信を見せつけるべく気合を入れて隊列を組む。槍を持つ奴や、藩主が乗る駕籠(かご)を担ぐ六尺などは、「背の高さを6尺(180㎝)でそろえる」「色白に限る」「イケメン限定」などの条件をつけて口入屋という現在の人材派遣業者から臨時で雇い入れることもあった。 大名たちの登城日に江戸城大手門周辺で待っていれば、ひっきりなしにやってくる華やかな大名行列が見られるというわけだ。ただし、〇〇藩主××家というプラカードを持った人が行列の先頭にいるわけでも、今到着したのが誰なのかというアナウンスもない。 そのため、今目の前を通ったのがどこの誰なのかがを知るためには、武鑑(ぶかん)のお世話になる。武鑑は、大名名鑑ともいうべきもので、大名の名前や役職、屋敷の場所、領国、石高、家紋、槍の形や色、本数などが記載されている。現在の野球やサッカーなどの選手名鑑を思い浮かべればわかりやすいかもしれない。これを見れば、駕籠や道具に描かれた家紋や槍の形、その数などで、大名が誰なのかがわかるのだ。 誰もが武鑑を持っているわけではないので、大名の登城日には、袖珍武鑑(しゅうちんぶかん)というハンディータイプの武鑑を販売する商人がやって来た。袖珍武鑑は軽くて持ち運びに便利だったので、江戸土産としても人気だったという。武鑑だけでなくそのほかの土産物や甘酒などの飲食物を商う人も出て、登城日の江戸城大手門周辺はちょっとした縁日のような賑わいを見せた。大名の供の中にはこうした商人から買った物を飲み食いして「買い食いはみっともないからやめるように」と叱られることもあったようだ。
加唐 亜紀