冷戦終結後のアジアと日本(7) タイ経済研究からの挑戦:末廣昭・東大名誉教授
アジアに目を向ける日本
大庭 アジア通貨危機の前後で日本のアジア研究、アジア認識は変化したのでしょうか。 末廣 もっとも印象的なのは、アジアにあまり目を向けていなかった日本政府が、この危機を契機にアメリカの意向に関係なく、独自にアジアとの関係を構築しようとしたことです。中国に対してAsian Monetary Fund(AMF)(アジア版国際通貨基金)の創立を打診してみたり、宮沢プラン(新宮沢構想:日本による二国間協力ベースでの資金支援で、300億ドルが用意された)を推進したりと、さまざまな構想が出ました。象徴的だったのは、経済産業省の『通商白書2001年』が冒頭に大特集「東アジアを舞台とした大競争時代」を組んだことでした。それまで欧米中心に世界経済を見ていた『通商白書』の執筆者が、アジアに目を向けるようになったのです。 もう一つの大きな変化は、中国がASEAN(東南アジア諸国連合) 地域への南進の動きを見せ始めたことです。2002年に中国は、ASEANとの包括的経済協力協定を向こう10年間で完成させると宣言し、実際に08年までに貿易協定や投資協定などを締結しました。他方、日本は02年1月に、小泉純一郎首相がシンガポールで「東アジア共同体構想」を提起するなど、日中両国がASEANとの関係強化を巡って競い合うわけです。当時日中両国ともにASEANにもっとも接近し、1997年に開始されたASEAN+中国/日本の首脳会議の場を各々使って、自分たちの構想を展開する競争が始まった。同時に、韓国も加わって「ASEAN+3」の会合も始まりました。東北アジアと東南アジアにまたがる地域協力の絵が描けるという、今では到底考えられない状況があったのです。 別の面から見れば、日本とアジア、太平洋との関わりを示す言葉が、1990年代はアジアNICs、あるいはアジア太平洋地域経済と言われたものが、2000年代に入ると東アジア一辺倒に変わる。その後インドが出てきたので、東アジアの「東」を取ることになり、さらにはアジアへのピボット(旋回)を宣言したアメリカ(オバマ大統領)との連携を意識して、かつての「アジア太平洋」に回帰しました。その地域概念の変遷が、日本政府のアジアに対する認識と政策の変遷を見事に反映していて、面白かったですね。