冷戦終結後のアジアと日本(7) タイ経済研究からの挑戦:末廣昭・東大名誉教授
変化の速いアジアをどう把握していくか
大庭 今、あえて日本でアジアを研究するということの意義をどうお考えですか? 末廣 私にとってショックだったのは、アジア関係書物の専門書店「アジア文庫」の店舗(神保町)を経営していた故・大野信一さんの話です。大野さんの話では、アジア関係本が1番売れていたのは実は1988年頃で、以後は下降気味だったそうです。私たちの感覚では、1990年代後半に日本社会のアジアへの関心が高まったかに思っていましたが、その頃にはすでに下り坂だったのです。 大庭 研究対象としての東南アジアの変化も極めて早いですね。 末廣 現在、東南アジアの政治や経済をどういう視点で把握すればよいのか、本当に難しい時期に来ていると思います。例えば、タイの民主化を論じる際に、1992年の「暴虐の五月事件」以降は、民主主義の制度化とその定着を議論すればよかった。ところが、2014年5月のクーデター以後のタイの政治状況をどう理解したらよいのか、実はよく分からない。 タイ以外の東南アジア諸国、マレーシアやインドネシアやフィリピンの現状も似たようなところがあります。欧米諸国で発達した政治学のツールを使っても、東南アジア諸国の政治の現状はうまく分析できないし、かつてのように地域研究者が過去の体験を頼りに観察しても、起きていることを説得的に説明することができない。過去の経緯ではなく現在進行形の東南アジアの実態に関していえば、非常に捉えにくくなっていると思います。 もう一つ、アジア地域におけるデジタル社会化とSNSの影響を、私たちはまだうまくつかめていないように思います。議会制民主主義の制度がありながら、政治体制としては権威主義の傾向が強まるとか、政治指導者のパーソナリティが政治の世界でますます重要になっている背景には、いずれもSNSの影響があると思います。 自分の専門とするタイについてですが、私はタックシン政権(2001年~06年)が残したものが大きかったと考えています。グローバル化と経済の自由化が進む中で、タイがいかに生き残るのか。タックシン首相はいろいろとラディカルな試みを行ったわけですが、結局、国民の多くが受け入れなかった。彼らは王制を中心にすえる道を選んだ。ところが、その王制も若い世代を中心に厳しい批判が出ています。したがって、現在の軍事政権に代わる若い新しいリーダーの登場が期待されているとは思うのですが、その方向性が今のところ見えていません。 政治だけでなく、経済も尻すぼみで、文字通りタイは「中所得国のわな」に陥っている状況です。だからと言って、政府が強引に高成長路線を取れば、分断と格差が広がって、少数の人たちのための発展になりかねません。ですからタイの場合、高所得国への仲間入りをしゃにむに目指すのではなく、高所得国の入り口あたりに仮に留まったとしても、社会の成熟を図った方が私は賢明だと思います。 こうした点を把握するには、地域研究の意義とその役割を、もう一度評価した方がいいと思います。例えば、東南アジア諸国での総選挙でも、選挙行動を統計的に処理して分析する研究者は増えていますが、現地の人々が何を考えてなぜこの人に投票し、どのような社会を望んでいるのか、そういうごく当たり前の、でもとても重要な問題をきちんと分析する人がいない。それはやっぱり現場を見ないからじゃないか、というのが私の感想です。 インタビューは、2022年9月26日、nippon.com において実施。原稿まとめを大庭三枝・神奈川大教授と川島真・東大大学院教授が担当した。『アジア研究』(70巻1号、2024年1月)にインタビュー記録の全体が掲載されている。
【Profile】
末廣 昭 東京大学名誉教授。専門は開発経済学、アジア経済論。1951年生まれ。アジア経済研究所研究員、東京大学社会科学研究所教授、同所長、学習院大学教授などを歴任した。2003-05年アジア政経学会理事長。