冷戦終結後のアジアと日本(7) タイ経済研究からの挑戦:末廣昭・東大名誉教授
タイ経済研究からの展開
大庭 末廣先生はタイ経済研究を起点に多様にご研究を展開された印象を持ちます。 末廣 1976年から1987年まで所属したアジア経済研究所調査研究部の方針もあって、私は基本的にタイ研究、つまり一国研究(カントリースタディ)をやってきました。でも、大学時代に勉強していたのは現代日本経済論と日本経済史です。タイ経済研究を始めて、先行研究の多くが欧米の研究成果に依拠していたことに気づき、何とか日本経済史研究に近い、地に足のついた実証研究をタイについてもやりたいと思いました。これが出発点でした。そこで、日本経済の発展パターンを念頭に置いてタイの経済発展の特徴を考えようとしました。この点、タイから研究を始めた地域研究者の人たちとは違うのです。 もう一つ別の動機は、学生時代から行なっていた多国籍企業研究と関係します。決定的だったのが1997年のアジア通貨危機でした。通貨危機やその発生前のタイにおける経済ブームには、タイに閉じこもって研究していたら実態が見えないことが多くあることを痛感しました。ただ、その時点では中国という経済大国には手を出さないと決めていました。人口大国で制度も複雑な国を対象に含めたらやけどするからです。 ところが2000年代に入ると、中国を分析対象に入れないことにはアジア経済を議論することができなくなってきました。そこで、中国の南進の拠点となっている大陸部東南アジアの「CLMV+タイ」(カンボジア・ラオス・ミャンマー・ベトナム・タイ)を中心に考察することになり、中国研究者とともに共同研究(「大メコン圏」= Greater Mekong Sub-region)を始めました。中国研究と東南アジア研究という縦割りを超えた試みでした。 大庭 中国の経済的な台頭、影響力の拡大を、東南アジア研究の視点からどのように捉えたのですか。 末廣 中国の政府や企業が東南アジアに進出するとき、華人・華僑のチャネルだけを使うのではなく、時にはローカルの非華人系企業も随分と使うわけです。その点は「華人経済圏」を議論する人たちと東南アジアの地域研究者が見ている現場とはやはり違っていましたね。例えば、業種によって固有の論理もあり、不動産業や資源産業のように、政府が許認可権を持っている場合には、華人・華僑のネットワークだけに頼っても駄目ですから、いろいろな手段を使う。 また、この時期の大きな変化は、タイと中国の間の相互認識の変化です。中国との交流が増えると、かつての「チーンデーン」(「赤い中国」=共産主義の怖い国というニュアンス)ではなく、中国を「中国」(プラテート・チーン)と呼ぶようになり、華僑の子弟らの中国語学習も自分の先祖の出身地の言語(潮州語など)ではなく、ユニバーサルなコミュニケーションツールとして、仕事やビジネスに将来役に立つだろうという実利的な観点から中国語(普通話)の学習を始めたのです。