【平成の名力士列伝:白鵬】細身の少年から大横綱の地位を築いた史上最強の力士
連載・平成の名力士列伝18:白鵬 平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。 そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、入門時は目立たなかった少年から「史上最強の力士」の座に上り詰めた白鵬を紹介する。 〉〉〉過去の連載記事一覧 【無名だった入門当時と苦労の日々】 空前絶後の優勝45回をはじめ、勝利に関するほとんどの記録で史上1位に輝いた大横綱・白鵬だが、入門当初は全く目立たない痩せっぽちの少年だった。 平成12(2000)年10月、モンゴルからやって来た自身を含む7人の少年は2カ月間、実業団相撲の強豪である大阪の「摂津倉庫」に預けられた。その間、角界の親方衆が稽古場に詰めかけ、少年たちは次々と入門先が決まっていったが、必死のアピールも虚しく、のちの白鵬ことムンフバト・ダバジャルガル少年に声が掛かることはなかった。 失意の身で荷造りをしていた帰国前夜、一本の電話が掛かってきたことで少年の運命は大きく変わることになる。ダヴァ少年を不憫に思った当時現役だった旭鷲山が、宮城野親方(元幕内・竹葉山)に連絡すると、新弟子を受け入れるという。条件は「うちの龍皇(モンゴル出身で白鵬の2歳上)より年下ならば」というだけで、親方は一度も対面することなく引き取ることを決めた。 初めて番付に名前が載った平成13(2001)年5月場所は序ノ口で3勝4敗の負け越し。歴代横綱で序ノ口のデビュー場所で勝ち越せなかったケースは、ほんの数例しかない。父親はモンゴル相撲の大横綱であり、レスリングの選手として祖国に初めて五輪メダルをもたらした国民的英雄であることは日本ではまだ周知されておらず、「白鵬」という四股名をもらった15歳に着目するマスコミは皆無だった。 まだ10代の修業時代、自身より1年早く入門した同郷の龍皇は、格好の稽古相手だった。四つ相撲の白鵬とは対照的な突き押しタイプで、廻しが取れなければ、稽古場の壁の羽目板に叩きつけられた。普段は仲がいいふたりだが、稽古場は別だった。一方が負ければ、もう一方が「もう一丁!」と食い下がる。互いに負けず嫌いの両者は次第にヒートアップし、最後はケンカ腰になり、師匠がたまらず止めることも珍しくなかった。 一日50~60番はざら。体力を存分に使い果たし、足腰もおぼつかない状態で最後は、ぶつかり稽古で兄弟子に胸を借りる。関取衆でも5分もぶつかれば息も絶え絶えになる仕上げの稽古だが、幕下の頃は毎日30分はやらされた。 当時を振り返り、白鵬は「稽古場で2回、夜寝る前に1回、一日3回泣いてましたね」と話す。兄弟子に首根っこをつかまれて引きずられ、悔しくて泣き、稽古が終わるとその兄弟子から「お前のためだからな」と言われてホロリと泣き、夜は布団の中で「明日も稽古か」と思うと自然と涙がこぼれた。辛い日々を過ごしたが、辞めようと思ったことは一度もなかった。志半ばで母国に逃げ帰れば、偉大な父親に恥をかかせることになる。我慢するしかなかった。