なぜ、天皇の祖先は「まつろわぬ民」の居住地だった南九州に上陸したのか?【古代史ミステリー】
鹿児島県曽於(そお)市大隅町にそびえたつ、約15mの巨人像は、九州南部に伝わる巨人伝説の主人公・弥五郎どんの姿を現したものだといわれている。8世紀の時代に、彼の地に居住していたと伝えられる隼人(はやと)の長として、強大なヤマト王権を相手に一戦を交えたのではないかと推察されるのだ。 ■身の丈15mもの巨人が出現 「おおすみ弥五郎伝説の里」というユニークな名前の道の駅がある。所在地は、宮崎県との県境に近い、鹿児島県曽於(そお)市大隅町。20ヘクタールもの広大な敷地を誇る、大隅町屈指の観光スポットでもある。その一角に、高さ15mもの巨人像がそびえている。長い鉾を握り、腰に太刀と小刀を挿して鬼のような形相で真正面を睨みつけるという、迫力満点の人物像である。それが、九州南部に伝わる巨人伝説の主人公・弥五郎どん(大人弥五郎)だ。 その険しい顔立ちからして相当な武人かとも思えるが、実のところ、何者なのか諸説あって定かでない。景行(けいこう)天皇から仁徳天皇まで6代の天皇に仕えたという武内宿禰(たけのうちのすくね)説や日本武尊(やまとたけるのみこと)に征服された熊襲梟帥(くまそのたける)説などがまことしやかに語られることもあるが、さもありなんと頷きたくなるのが、ヤマト王権によって制圧された隼人の首領説である。ただしこれを語るには、時代を8世紀まで遡らなくてはならない。 ■寡兵ながらも奮戦した隼人の象徴? 時は元正天皇の御世、養老4(720)年のことである。大隅国の国司・陽侯史麻呂(やこのまろ)が、何者かに殺害されるという事件が起きた。この数年来、南九州でくすぶり続けてきたヤマト王権に対する反感が爆発したものであった。律令制の根幹となる班田収授法、それを、いまだ完全に服属したわけでもない南九州の地に無理やり適応させ、強引に税の徴収を開始しようとしたからなのかもしれない。6年前の和銅7(714)年には豊前に居住していた民(秦一族か)5千人を大隅国に移住させて同化政策を進めるなど、まつろわぬ民に対する有形無形の締め付けが厳しくなってきたことが下地になったとみられる。 事件からわずか数日後の3月4日には、早くも大伴旅人(おおとものたびと)が征隼人特節大将軍に任じられ、1万人以上もの大軍を率いて征伐が開始された。このことからみても、王権側も相当重大な局面であると認識していたのだろう。対して、隼人側の兵力は数千人。この圧倒的に不利な条件をものともせず、曽於乃石城(そおのいわき)や比売之城(ひめのき)など7つの城に立て籠もって持久戦を展開。攻略に1年半近く要すという熱戦が繰り広げられたのである。隼人の戦闘能力の高さが推察できそうだ。 それでも、養老5(721)年7月7日、結局は隼人側が、戦死者、捕虜合わせて1400人という甚大な被害を被って敗退。ここで紹介する弥五郎どんとは、つまる所、この隼人軍を率いた首領あるいはその象徴だったのではないかと考えられているのだ。無理やり支配下に置かれようとした民の心情を鑑みれば、その代表者の表情が険しかったのも当然というべきか。さらに、巨人として思い描かれたのも、中央政権に対する怒りの大きさを物語っているように思えてくる。 ■なぜ天孫降臨の地が隼人の居住地だったのか? ところで、隼人の居住地であった南九州といえば、『記紀』の記述によれば、王権の祖・天孫族が降臨したとみなされるところ(諸説あり)のはず。天孫・瓊瓊杵尊が降臨したとされる高千穂峰をはじめ、その陵墓・可愛山陵(えのみささぎ)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の陵墓・高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)、神武天皇の父の陵墓・吾平山上陵(あいらさんりょう)、神武天皇の生誕地とされる皇子原(おうじばる)神社等々、枚挙にいとまがないほど伝承地が存在する。 同時に、同地域は王権に「まつろわぬ」とみなされた熊襲(隼人との関係は諸説あって複雑)の居住地でもあった。ということは、王権にとって、そこは決して安住できるところではなかったはず。それなのになぜ、その不穏な地を王権の原郷だったとみなしたのか? これこそ、古代史最大級の謎の一つである。 その謎解明に大きな役割を果たすと考えられるのが、この隼人の存在なのである。隼人とは、ズバリ、中国江南あるいはそれ以南から、直接黒潮に流されてやってきた人々だったのではないか? 東部の大隅隼人が江南以南から縄文時代に渡来してきた狩猟民族で、西部の阿多(田)隼人が弥生早期に江南から渡来してきた海人族(海幸彦との関連が気になる)だったのではないかと、筆者は密かに推察している。 これに対して王権の祖とされる人々は、縄文末期に中国江南地方から稲を携え、朝鮮半島を経由して、北九州ばかりか南九州へも渡来してきた人々だった考えられる(野間半島の宮ノ山遺跡のように、朝鮮半島でよく見られる積石塚や支石墓などがその痕跡か)。このうち南九州へ上陸した人々(瓊瓊杵尊に象徴される人々か)が、先住の大隅隼人と一時期は共存。協調関係を保っていたと考えたい。 その表われが、瓊瓊杵尊と山神の娘・木花開耶姫との婚姻である。もう一方の阿多隼人との関係が、瓊瓊杵尊の子・彦火火出見尊(海幸彦)が海神の娘・豊玉姫との婚姻譚に言い表されているのかもしれない。しかし、豊玉姫との婚姻関係が破綻したことでもわかるように、両勢力は結局、対立。そこから脱出した人々が、安住の地を求めて大和へ東征あるいは東遷したのではないか? その記憶が、神武天皇の東征物語に反映されているという気がしてならないのだ。 加えて、この隼人の居住地に打ち立てられたのが狗奴国(くぬのくに)だった可能性もある。そこから脱出した人たちが、甘木から宇佐へ拠点を移していた邪馬台国(澤田洋太郎氏説を踏襲)の残存勢力(邪馬台国は、狗奴国との戦いに破れたか、卑弥呼の死によって妥結が図られたとも考えられる)を伴って、大和へと向かったのではないか? 諸説を踏まえて考察し直してみれば、こんな推察ができるのではないかと、思えてくるのである。
藤井勝彦