「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(7)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ GHQはなぜ西暦を導入しなかった?
平成に代わる新元号「令和」の時代が5月1日からスタートしました。元号は、日本だけでしか使われていない時代区分ではありますが、新聞やテレビなどで平成を振り返るさまざまな企画が行われるなど、一つの大きな区切りと捉える人が多かったようです。その一方で、元号に対して否定的で「西暦に統一したほうがいい」という意見も少なからず聞こえてきました。 そもそも、人はなぜ年を数えるのでしょう。元号という年の数え方に注目が集まっている今だからこそ、人がどのような方法で年を数えてきたのか、それにはどのような意味があるのかについて考えてみるのはいかがでしょうか。 長年、「歴史における時間」について考察し、研究を進めてきた佐藤正幸・山梨大学名誉教授(歴史理論)による「年を数える」ことをテーマとした連載「ホモ・ヒストリクスは年を数える」では、「年を数える」という人間特有の知的行為について、新しい見方を提示していきます。 第3シリーズ(7~11回)は「キリスト紀年を表す造語『西暦』」がテーマです。日本人はどのように「西暦」という言葉をつくりだしたのか。その背景に何があったのか。5日連続解説の1回目です。
一世一元の制への変更
「第2次世界大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)はなぜ西暦を導入しなかったのか」といった質問を受けることがある。 「西暦を導入することは、占領軍にとって致命的な自己矛盾に陥るからだ」というのが私の答えである。 645年の「大化」以来、日本は紀年表記に年号制度を採用してきた。年号とは、践祚(せんそ・天皇の位の継承)に限らず、瑞祥(ずいしょう・めでたいこと)や天変地異等に応じて年に新しい名前を付ける(改元する)ことで1年1年を認識するという、漢字文化ならではの紀年法である。 この年号制度だが、明治時代に入ると改元方法が変更された。明治政府は1868年9月8日、「自今、御一代一号ニ被定候依之改慶応四年可為明治元年旨被仰出候事」(現代語訳:今後、天皇一代に一年号とすることに決定し、慶応4年を改めて明治元年とする)という行政官布告第726を発し、皇位の継承があった場合にのみ改元することになった。 この一世一元の制は、後に「元号」という名称で表現されるようになった。案外知られていないことであるが、この呼称は、日本独自の用語であり、中国には存在しない。 一世一元の制に変更した最大の理由は、国家統治の大権が、徳川将軍から天皇に戻ったこと(王政復古)を、内外に周知させることにあった。また、瑞祥や天変地異による改元はひんぱんになりすぎることが多々あったので、そのわずらわしさを減らすためという意味合いもあった。 平成から令和に変わる今年まで1374年間にわたって使用され続けてきた日本の年号は、数え方にもよるが、約250個ある。一つの年号の使用期間は平均5~6年だが、中には1年未満のものも10個ある。新年号を国内に周知徹底する前に、次の年号に切り替わってしまうというようなことが何度もあったわけだ。 川口謙二・池田政弘『元号事典』(東京美術、1977)によると、江戸時代のような国家体制が安定している時期は、使用期間が比較的長い傾向にあるが、それでも一つの年号の使用期間は平均7.4年だそうである。一世一元の制になった現在から考えるとずいぶん短く感じられる。 1889年の皇室典範の制定の際、その第12条に「践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」(現代語訳:天皇が位についた後、新元号を定め、天皇の在位中は改元しない、これは、明治元年の決定通りとする)という条文が設けられた。