「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(7)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ GHQはなぜ西暦を導入しなかった?
西暦導入を阻んだ「信教の自由」
日本占領に対する連合国軍の基本方針である「信教の自由」も、この問題に深く関係している。 佐藤達夫文書には、ケーディスとの交渉の同日に行われた別の会議である、皇室経済法についての打ち合わせの席で、連合国軍総司令部のサイラス・ピーク(Cyrus H. Peake、1900~?)が、「元号法はどうか」という日本側からの問いに対して、「西暦紀元をとることを強制することは宗教の自由に反することになる。はゝゝ」と答えた記録が残っている。 西暦に関する言及は、ただこれだけである。ピークは戦前の日本にも滞在したことがある中国研究者であったため、漢字文化を知っていた。私は、ピークがこの「西暦紀元」という言葉を日本語で語ったのか、それとも英語で語ったのかが気になったため、やはり国立国会図書館の憲政資料室が所蔵する「日本国憲法の制定過程:英文原資料1944~1949」(Framing the Constitution of Japan: Primary Sources in English, 1944-1949)に含まれる「サイラス・H・ピーク文書」(Cyrus H. Peake Papers)の中に、西暦紀元に関するメモが残っていないかどうかを調べてみたが、いかなる記録も発見できなかった。 なぜ、私がピークの使用した言語にこだわったかというと、日本語の「西暦紀元」という言葉だけでは、キリスト教に依拠した宗教紀年であることが伝わらないからである。ピークは、日本人がいう西暦紀元は、「西洋紀年」(Western chronology)でもなく、「西洋暦」(Western calendar)でもなく、「キリスト教紀年法」(Christian chronology)であるということを、日本側の担当者に伝えたかったはずだ。それを確認するためにも、ピークの使用言語を知りたかったのだが、少々残念だ。 ただ、当時、日本人の中に、「西暦を導入してはどうか」という意見があることを、ピークは知っていた。しかし、連合国軍占領下でキリスト教紀年法を導入することは「国家による宗教の強制」ととられかねず、最も避けたい行為であった。「国家は宗教にコミットしない」という連合国軍の日本占領における基本政策は、アメリカ人にとっては、何物にも代えがたい原理原則だったのだ。繰り返しになるが、ピークが指摘したのは、西暦紀元はキリスト教に由来する宗教紀年法であるということであった。 アメリカ合衆国のそもそもの成り立ちを思い出してほしい。1620年、イギリスからメイフラワー号に乗って北アメリカに移住したピューリタンの一団で、アメリカ建国の父たちと称される人々はピルグリム・ファーザーズと呼ばれている。彼らはイギリス国教会の弾圧から逃れ、信仰の自由を求めてアメリカに逃れてきた人々であった。 また、1791年に成立したアメリカ合衆国憲法修正第1条は次のように記している。「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。」(アメリカンセンターJAPANによる日本語訳) つまり、アメリカ人は、そもそもの自国の成り立ちからして、国家による宗教の強制に強く反対する国民なのである。 1946年の時点においては、元号法は象徴天皇という考えとの関係で成文化することはできない、西暦はキリスト教紀年法であるため「信教の自由」という連合国軍の原理原則に反するので導入することはできない、という状況であった。GHQは、西暦を「導入しなかった」のではなく、「導入できなかった」のだ。八方塞がりの状況の中、昭和という元号は継続使用されることに落ち着いた。(続く) ※次回は5月24日に掲載します。 著者紹介:佐藤正幸(さとう・まさゆき)1946年甲府市生。1970年慶應義塾大学経済学部卒。同大学大学院及びケンブリッジ大学大学院で哲学と歴史を専攻。山梨大学教育学部教授などを経て、現在、山梨大学名誉教授。2005~2010年には、President of the International Commission for the History and Theory of Historiography(国際歴史学史及歴史理論学会(ICHTH)会長)を務めた。主著に『歴史認識の時空』(知泉書館、2004)、『世界史における時間』(世界史リブレット、山川出版社、2009)、共編著:The Oxford History of Historical Writing: Volume 3: 1400-1800,(Oxford University Press, 2012)など。