「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(7)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ GHQはなぜ西暦を導入しなかった?
「佐藤達夫文書」から見えるGHQの姿勢
しかし、1946年、連合国軍占領下の日本において行われた、新憲法制定に向けた法制度設計の中で、改めて元号が問題となる。それは、元号を規定した1889年制定の皇室典範が廃止され、新しい皇室典範が制定されることになったからである。新しい皇室典範は、もっぱら皇族の範囲を規定するもので、従来の皇室典範のような一世一元の制に関する内容はない。 新生日本として、年を表記するシステムである元号を継続するためには、新たな根拠法が必要になるのではないか――。このように考えた日本側担当者から、GHQに対して、新法制定に向けた働きかけが始まった。 この問題を担当した日本側の代表は、当時法制局次長で日本国憲法の作成に携わった佐藤達夫(1904~1974)だった。佐藤はGHQとの種々の交渉の経過をメモに残しており、それらは現在、「佐藤達夫関係文書」として国立国会図書館の憲政資料室に保存されている。以下では、この資料を手がかりに、当時の交渉の様子を紹介したい。 佐藤の交渉相手となったGHQの担当者はケーディス(Charles Louis Kades、1906~1996)。1945年8月にヨーロッパから東京のGHQに異動してきて、日本国憲法制定の中心的存在となった人物だった。しかし、その経歴からして、日本や東アジアに関する知識はほとんどなかったようである。 「一世一元制度の根拠法として、元号法を制定したい」。この日本側からの要求に対して、ケーディスは極めて消極的であった。1946年11月15日の参議院法打ち合わせの際の佐藤達夫メモには、ケーディスの言葉として次のような記述がある。 「今の元号を其の儘使うことは否認せず。かかる法制を作ることが大いに問題なり」 「元号制は、天皇制をクリアにするものである。年を数える一つの権威として天皇を扱うことになる。これは諸国に対し刺激的である」 「このまま昭和の年号を使用し続ければ良いのであって、連合国軍撤退後に自由にしたらよいではないか」 残念ながら、ケーディスがどのような英語表現をしたのかに関しては、GHQの米国側資料には何も残ってはいないが、いずれにせよ、この二人の交渉の結果として、日本国憲法制定時に元号法は制定されず、そのまま「昭和」が使用され続けた。そして、根拠法がないまま元号を使用し続けるという不安定な状態を何とかしなければいけないという思いを、この時に解消できなかったことが、1979年の元号法制定へと繋がっていった。