「お店」と「家庭」のフランス料理は違うモノ?食べごろの素材をまず並べ、鮮度が関係ないものは違った形のベストな状態で食べるのが<フランス料理>
◆子供のときに体験した「フランスの味」を思い出してみる 叔母が作ってくれる夕食も、庭で穫れた野菜から始まることが多い。だから子供のように勢いよく手が皿にのびてしまう。 生ハムや牡蠣など生で食べるものを買ってくれば、一番初めにそれが出てくる。そしてグラタンや煮込み料理など、火をよく通した方が美味しい食材で作ったメインの料理があり、チーズかフルーツが続いて、最後にデザート。 レストランのフルコースと同様に順番に食べてはいるが、仰々しい雰囲気はなく、とても自然な流れで一つ一つを大事に食べていることに気づく。 高級店では、これでもかと趣向を凝らして作った料理が一品一品、客を驚かそうとばかりに出てくるから、なんとなく「ゴージャスな食事」という印象になるけれど、必ずしもそれはフランス料理の真髄ではない。本場のフルコースは「全ての食材をどうやってベストの形で食べるか」というコンセプトから生まれている。 子供の私が感じた、日本のフレンチと本場のフレンチの違いも、もしかすると、順番に出てくるとか、見た目が凝っているとか、そういうことではなかったのかもしれない。そこで改めて記憶をたどってみようと、子供のときに体験した「フランスの味」というものを、まずは思い出してみることにした。
◆鮮明に思い出すのは、素材の味 最初によみがえったのは、幻の黄緑色のフルーツ。丸くて小さくて、青い梅みたいなんだけれど、味はメロンのようでもあった。フランスで食べたきり二度と見たことがなくて、未だに正体がわからず、本当にあったのか、想像物なんじゃないかと思うぐらいだ。 熟れていない青い洋梨も、いとこたちの真似をして喉が渇くと水代わりにかじった。叔母がむいてくれたアーティチョークの甘さもおぼえている。パリの中心に遊びに行ったときは、微炭酸にレモンが入っている「シトロン」という飲み物を買ってもらった。蒸かしたじゃがいもに溶かしたチーズをかけて食べるラクレットも大好きで、これは日本のチーズでやっても美味しくないだろう、と子供ながらに思ったものだ。 どれも日本に持って帰りたかったけれど、日本人の子供の口に合わないものもあった。色々な野菜を一緒に焼いたオーブン料理が出されて、今思うとラタトゥイユ的なものではないかと思うが、知らない野菜の苦みが強くて、どうにも食べられなかった(今食べたら、美味しいんだろうなぁ)。表皮が黒い大根にもびっくりしたが、水分がなくてすかすかで美味しいと思わなかった。 どちらにしろ鮮明に思い出すのは、素材の味だ。このように記憶を並べてみると、私の中で「日本のフレンチ」と「叔母の料理」がなぜくっつかなかったか、本当の理由が見えてくる。当時はまだ十歳でボキャブラリーがなかったからしかたがないが、もし今だったら、私は母親にこのように投げかけているだろう。 「フランスのフレンチは素材の味が強烈で、またそれを引き出すような絶妙な調理の仕方をしているのに、なぜ日本のフレンチはそれをしてないの?」 日本のフランス料理にダメ出ししているように聞こえたら(聞こえますね)申し訳ないけれど、あくまで四十年近くも前の話なので(最近の日本のフレンチは、本家を超えている店も多いと思います)。自分に味覚のセンスがそこまであるとも思っていない。けれど、子供の舌は敏感だから、ちゃんと素材の味を拾っていたのではないだろうか。 新鮮で食べごろの素材をまずは食卓に並べ、鮮度が関係ないものは、また違った形のベストな状態で食べる。むしろ合理的。それがフランス料理なのだ。 ※本稿は、『パリのキッチンで四角いバゲットを焼きながら』(幻冬舎文庫)の一部を再編集したものです。
中島たい子