日本がアメリカに結ばされていた「核持ち込みに関する密約」…「密約」は明確に存在していた
「東郷メモ」という超極秘文書
けれどもこの「外務次官になると必ず渡される引き継ぎ文書」の話を知ったとき、私はむしろホッとした思いがしたのでした。 「やっぱりそうだったのか。権力の“奥の院”には、そうした密約についてのきちんとしたマニュアルがあって、これまで何十年もずっと受け継がれてきたんだな」と。 『知ってはいけない2』第一章の冒頭でお話ししたとおり、日本の高級官僚に対する信頼感がまだかなり残っていた昭和世代の私は、単純にそう思ったのです。 日本には古くから、顕教(オモテの教え)よりも密教(ウラの教え)の方が上位にあるという社会的な伝統があり、その「密教」にアクセスできるものだけが、組織において真の権力を握る。 戦後、日米間で結ばれた軍事上の密約こそは、まさしくその密教そのものであり、エリート中のエリートである外務省の幹部たちによって、これまで厳重に管理されてきたのだなと。 けれどもその後、村田元次官の証言がきっかけとなって行われた民主党政権下の密約調査で、解禁されたその「極秘文書」を見たとき、今度は大きな失望を味わうことになったのです。 というのも、村田元次官がその遺言ともいえるメッセージのなかで触れていた、歴代の外務次官が引き継ぎ、それをもとに何十年も外務大臣や首相に「ご進講」が行われていたという問題の文書とは、かなり不格好なものだったからです。(*実際の資料はぜひ本書でご覧ください) これこそが、本章の冒頭で紹介した「ミスター外務省」東郷文彦が、いまから半世紀前の1968年1月27日、混乱をきわめた「核密約問題」に終止符を打つべく書き残した渾身の極秘文書、いわゆる「東郷メモ」だったのです。
北米局長が管理していた密約文書
「この文書は北米局長が預かっていたのです。北米局長室に金庫がありまして、その金庫に保管したのです。(略)外務大臣、総理が代わりますと、次官は北米局長にあの書類を持ってきてくれと言う。〔言われた〕北米局長がその書類を次官に渡して、局長が同席した場合もあるし、(略)次官が単独で大臣、総理に説明をしたこともある」 「「東郷メモ」の欄外にずらっと政治家の名前がありましょう。(略)歴代事務次官がいつ、どの大臣、総理にこの中身を説明したかがずっと欄外に書いてあるわけです」 これは村田氏の次に事務次官となり、その後、やはり駐米大使も務めた栗山尚一氏の証言です(『沖縄返還・日中国交正常化・日米「密約」』岩波書店)。 たしかに東郷メモの欄外の書き込みは、東郷北米局長自身による「三木大臣 御閲読済 東」という1968年(昭和43年1月30日)の書き込みで始まり、有馬(龍夫)北米局長による「三塚大臣へ口頭にて説明済(村田次官より)」という1989年(平成元年6月15日)の書き込みで終わっています(*5)。 けれども私がこの文書を見て驚いたのは、なにより文面があまりに乱雑だということでした。文字が読みにくいうえに欄外に書き込みがあり、内容にもいくつも間違いがある(→『知ってはいけない2』275ページ)。 「これが本当に外務省一のエリート官僚が書いた最高機密文書なのか?」 「この文書を本気で後世に引き継ぐつもりがあったのか?」 と思ったのです。 * (*5)その次に次官となった条約局出身の、やはり超エリート外務官僚である栗山氏が、この「東郷メモ」の要点を簡潔にまとめた「栗山メモ」(全文→277ページ)をつくり、「東郷メモ」に添付しています。「栗山メモ」には、一九八九年八月に栗山がメモの内容を中山太郎外務大臣と海部俊樹首相に説明したことが書かれています。しかしその後は非自民党政権(細川護煕内閣)の誕生やアメリカの核戦略の変更(「ブッシュ・イニシアティブ」→32ページ)もあり、「次官が必ず首相と外務大臣に説明する」という慣例は姿を消したようです