日本がアメリカに結ばされていた「核持ち込みに関する密約」…「密約」は明確に存在していた
村田良平元外務次官の証言――密約は明確に存在した
歴史の資料を読んでいると、突然、幕のうしろから舞台に現れ、驚くほど貴重な証言を残したあと、すぐに姿を消して立ち去っていく人に出会うことがあります。 実はそうした人たちは、自らの死期を悟った人物であることが多い。 日米密約の問題で、歴史上もっとも鮮やかな証言者となったのも、2009年に外務省の“奥の院”の実態についてきわめて率直に語り、翌年の3月には死去された元外務次官の村田良平氏でした。 なにしろ事務次官(1987~89年)だけでなく、その後、駐米大使(1989~92年)まで務めた、まさに外務官僚のピラミッド組織の頂点に位置する人物が、長年最大のタブーとされてきた密約問題について赤裸々に真相を語ったのですから、その影響の大きさには計り知れないものがありました。 その村田氏の証言のもっとも重要な舞台となったのが、福岡に本社のある大手ブロック紙、西日本新聞が一面すべてを使って掲載した、次のような大スクープ記事(*3)だったのです。 ☆ ☆ ――核持ち込みに関する密約はあったのか。 「1960年の安保条約改定交渉時、核兵器を搭載する米国艦船や米軍機の日本への立ち寄りと領海通過には、事前協議は必要ないとの密約が日米間にあった。私が外務次官に任命された後、〔その文書を〕前任者から引き継いだように記憶している。1枚紙に手書きの日本語で、その趣旨が書かれていた。それを、お仕えする外務大臣にちゃんと報告申し上げるようにということだった。外部に漏れては困る話ということだった。紙は次官室のファイルに入れ、次官を辞める際、後任に引き継いだ」 ――昨年〔2008年〕9月に出版した著書「村田良平回想録」(ミネルヴァ書房)で密約に触れている。(*4)ためらいはなかったか。 「この際、正直に書くべきことは書いた方がいいと思い、意識的に書いた。(略)核について、へんなごまかしはやめて正直ベースの議論をやるべきだ。政府は国会答弁などにおいて、国民を欺き続けて今日に至っている。だって、本当にそういう、密約というか、了解はあったわけだから」 ――90年代末、密約の存在を裏付ける公文書〔『知ってはいけない2』27ページの「討議の記録」のこと:詳しくは71ページ以下を参照〕が米国で開示されたが、日本政府は否定した。 「政府の国会対応の異常さも一因だと思う。いっぺんやった答弁を変えることは許されないという変な不文律がある。謝ればいいんですよ、国民に。微妙な問題で国民感情もあるからこういう答弁をしてきたと。そんなことはないなんて言うもんだから、矛盾が重なる一方になってしまった」 * (*2)加えて第二次大戦の最末期には、義父である東郷茂徳外務大臣の秘書官として、終戦工作にも立ち会っています (*3)「米の核持ち込み「密約あった」村田元次官実名で証言」(2009年6月28日) (*4)すでにこの回想録のなかで村田氏は「「米国が協議して来ない以上〔核兵器の〕持込みは行われていません」との政府答弁は寄港、領海通行、領空については明らかに国民に虚偽を述べたと言わざるをえない」と証言していました