日本がアメリカに結ばされていた「核持ち込みに関する密約」…「密約」は明確に存在していた
アメリカによる支配はなぜつづくのか? 第二次大戦のあと、日本と同じくアメリカとの軍事同盟のもとで主権を失っていた国々は、そのくびきから脱し、正常な主権国家への道を歩み始めている。それにもかかわらず、日本の「戦後」だけがいつまでも続く理由とは? 【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」 累計15万部を突破したベストセラー『知ってはいけない』の著者が、「戦後日本の“最後の謎”」に挑む! ※本記事は2018年に刊行された矢部宏治『知ってはいけない2 日本の主権はこうして失われた』から抜粋・編集したものです。
日本の戦後、アメリカと外交交渉を行った首相
日本の戦後史を振り返ってみると、アメリカとのあいだで国家の根幹に触れるような、本当の意味での外交交渉を行ったのは、次の3人の首相たちだけだったと言えるでしょう。 そしてそのとき日本が手にした成果と、そのウラ側で結ばされたおもな密約は、それぞれ次の通りです。 吉田茂 占領の終結 指揮権密約(1952年と54年)(*1) 岸信介 親米体制の確立 事前協議密約/基地権密約/朝鮮戦争・自由出撃密約(1960年) 佐藤栄作 沖縄返還 沖縄核密約/財政密約(1969年) これらの対米交渉は、各首相たちの指示のもと、それぞれもちろん、もっとも優秀な外務官僚たちが担当しました。 * (*1)一般には「核密約」と呼ばれています
「ミスター外務省」東郷文彦
なかでも『知ってはいけない2』第一章に登場した東郷文彦(1915~85年)は、岸の安保改定交渉を担当課長(安全保障課)として支え、佐藤の沖縄返還交渉を局長(北米局、アメリカ局)として主導し、その後は事務次官と駐米大使も歴任した、まさに「ミスター外務省」といってもいいような輝かしい経歴の持ち主です。(*2) その意味では、岸政権のもとで生まれ、佐藤政権の沖縄返還を経て現在までつづく「日米同盟」の“奥の院”について、ただひとり全貌を知る立場にあったのは東郷だけということになります。歴史家たちに、もっとも優秀な戦後の外交官は誰かと投票させれば、おそらく彼が1位となるでしょう。 しかし皮肉なことにその東郷が、結果として密約文書についての解釈と処理を誤り、『知ってはいけない2』第一章で述べたような、現在までつづく大きな政治的混乱を生みだすきっかけをつくってしまったのです。 その経緯を、これからできるだけわかりやすくご説明したいと思います。