【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第25回 <関東大震災とベルギーから贈られた絵画と中禅寺湖畔の別荘>
100年前の関東大震災を題材にしたその絵には、立ち尽くす日本人の中に一人の外国人が描かれています。海外から寄せられた義援金などの支援を象徴するベルギーの大使です。義援金や物資だけでなく、ベルギーからは絵画134点も贈られ、チャリティーの収益が復興に生かされました。震災の5年後、旧大倉財閥は長年の商取引の「記念」として国王に中禅寺湖畔の別荘を贈り、今も大切に使われています。未曽有の災害の頃に数々の秘話がベルギーとの間にありました。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)
■支援の象徴として描かれたベルギーの大使
東京都慰霊堂と復興記念館がある墨田区の都立横網町公園。関東大震災で多くの人が避難し、火炎旋風に巻かれておよそ3万8000人が亡くなった慰霊の場所です。 記念館の2階中央展示室にその絵はあります。画家で文筆家の有島生馬が描いた油彩画の「大震記念」(198センチ×352センチ)。作家の有島武郎の弟、里見弴の兄で、フランスのセザンヌを日本に初めて紹介したことで知られる人です。 一面の焼け野原、人を巻き上げる火炎旋風、折れた鉄塔、もく浴する女性、復興に関わる人たち……。様々な場面を散りばめたコラージュのような絵には、「大震災の印象を部分的に描写せるものなり」というキャプションが添えられています。 右手の自動車の向こう。赤い服の少女の頭に手を置いて背広姿の外国人が立っています。ベルギーのアルベール・ドゥ・バッソンピエール駐日大使(男爵)です。滞在18年。原敬首相の暗殺や満州事変、国連脱退など、激動する日本を見ていた外交団の重鎮です。
大使は『在日十八年――バッソンピエール大使回想録』(磯見辰典訳、鹿島研究所出版会)に経緯を記しています。 「私は大将の横に夏服の姿でえがかれている。それは『日本に対する外国の援助』を具象するためであった。私は傍にいる日本の少女を励ましている姿勢をとっている。隣人であり友人である有島氏から、絵のこの部分のために彼の姪といっしょにポーズをとるように頼まれていたのだが、その結果、私の姿かたちは東京の博物館に残り、子々孫々まで伝えられることになったのだ……」 1923(大正12)年9月1日。大使は別荘を借りていた神奈川県の逗子で関東大震災に遭いました。サーフボードで遊ぼうとする子どもたちと海に入り、上がったところでした。激しい揺れに続く、吸い取られるような流砂と格闘し、津波から逃れようと全速力で高台の竹林へ走りました。一緒に海に入った子どもらも無事でしたが、大使は裸足でガラスの破片の上を走り、ひどい傷でした。 関東周辺では通信が途絶え、無事を本国に伝える方法がありません。その日のうちに東京へ向かう職員に秘書宛てのメッセージを預け、3日朝、そのメッセージは秘書から長野県の軽井沢へ向かう外国人に託されます。4日になって電報が軽井沢から神戸の総領事へ、総領事からブリュッセルへと打たれ、5日夕、ベルギーの外務省や家族の元に届きました。 6日に大使は東京へ戻ります。朝6時。暑さの中、友人から自転車を借りて逗子から横須賀へ向かい、そこから東京の芝浦まで曳き船に乗せてもらいました。波に漂う遺体を見ながら芝浦に上陸し、自転車をこいで麹町の大使館に帰り着きました。大使館は焼け残り、多くの人たちが避難していました。