”駅前遊郭”《衆楽園》 風紀取締りの厳重な鳥取の城下町に生まれ、消えた、遊蕩の巷
二枚鑑札と遊廓
本町に花街が成立すると、もう一方の《衆楽園》の取り扱いがおのずと問題になる。鳥取県の島根県合併後、島根県令により発布された明治10年の「芸娼妓取締規則」において、《衆楽園》は正式に遊廓として指定された(『鳥取県史 近代 第四巻』)。さらに、明治11年頃には「二枚鑑札と称せられた芸娼妓が許可」されている。「二枚鑑札」とは芸妓が娼妓をも兼ねることを意味した。 明治33(1900)年に施行された「娼妓取締規則」にもとづく転廃業によって、草創期からの業者は数を減じたというが、大正期には妓楼と芸妓置屋とが貸座敷組合と新地検番事務所を組織し(本城常雄編『大正の鳥取市案内』)、駅近傍の遊興空間をなしていた。おそらく、「娼妓取締規則」によって「二枚鑑札」は廃され、明治後期以降に廓内における芸娼の分離が進んだものと思われる。 この新地検番事務所であるが、昭和4(1929)年7月から、本町の検番事務所とは取り引きのない、つまり本町の芸妓が出入りしない市内の料理屋約60軒をもって組織された「二部料理屋組合」に対して芸妓の送り込みを開始した。廓内の芸妓が一般の料理屋に出入りするというのは他都市ではあまりみられない制度であるが、これもまた最初は芸妓置屋中心、そして「二枚鑑札」になったという《衆楽園》の歴史的な経緯とも関連しているのかもしれない。
赤線の終わり
徳川時代の藩主の下屋敷から、一時期の盛り場、そして曖昧な花街を経て、最終的には遊廓へと変貌した《衆楽園》。明治41(1908)年に鳥取駅が開設された結果、はからずも《衆楽園》は駅前遊廓となった。駅前となる以前(明治の中頃)から移転の必要性は繰り返し議論され、また前々項冒頭の引用文に「一県議をして毎年県会の壇上で叫ばせる」とあるように、「十二〔一九二三〕年には、かねて廃娼居士のあだ名のあった森十治議員の提案で、県会は知事に鳥取・境両遊郭の移転を建議したが、これはついに実現を見ずに終わった」のである(『鳥取県史 近代 第四巻』)。 戦前からの議論むなしく、戦後《衆楽園》は赤線へと移行、そして昭和33(1958)年、売春防止法の施行によって、その歴史に終止符が打たれた。 (『花街』より) 全国の「花街」の記憶を辿る旅はこちらから! 【富山】「明治維新で「殿様御殿」は“不夜城”に様変わり! 富山藩主別邸《千歳御殿》の辿った運命とは」 【鹿児島】「「墓地」と「花街」の奇妙な関係 不吉な出来事続発も、予想外の賑わいを呼んだ鹿児島の再開発」 【東京】「「海岸芸妓」に謎のM旅館……東京のウォーターフロント《大森》《森ケ崎》を賑わわせた花街の記憶」
加藤 政洋(立命館大学教授)