”駅前遊郭”《衆楽園》 風紀取締りの厳重な鳥取の城下町に生まれ、消えた、遊蕩の巷
都市再編の起点
「尚武勤倹を藩是として、芝居もめったに許さなかった」というほどに「風紀の取締りは厳重」であった城下町時代に遊廓などあろうはずもなく(『鳥取市七十年』)、この駅前遊廓も神戸や鹿児島と同じく明治初年に成立したものと思われる。昭和11(1936)年に編纂された田山停雲『鳥取県の歓楽境』を開くと、鳥取・米子・倉吉の「花街」が紹介されており、鳥取については2つの「花柳街」、すなわち料亭の櫛比する一流の花街となった本町と、貸座敷の営業地であった「新地」とが併記されている。旧袋川を挟んで本町の花街と「百花姸を競ふ」と謳われた「新地」こそ、駅前に位置する「黒塀内の遊廓」にほかならない。 この遊廓は一般に《衆楽園》と呼ばれていた。明治初年にさかのぼる《衆楽園》の形成過程は、じつに興味ぶかい。市制70年を記念して編纂された『鳥取市七十年』は、維新後におこった都市空間の再編が、この《衆楽園》にはじまったことを、そのままずばり「廃藩後の市中の変貌はまづ『衆楽園』におこったとみてよい」、と指摘する。
庭園の再開発
《衆楽園》は藩主池田家の下屋敷で、敷地内には岡山城下にある「後楽園」にちなんだ庭園があった。「廃藩後の市中の変貌」が旧下屋敷たる《衆楽園》からおこったのは、時代の変わり目に偶然にも生じたこの空閑地を、抜け目なく用途転換しようとした者があらわれたからであった。 明治4(1871)年、市内で桶工をしていた人物が、幕末・維新の混乱を経るなかで放置され荒廃していた《衆楽園》の跡地払い下げを県庁に出願し、翌年の正月には大衆的な娯楽場として市民に開放したのだった。 当然のことながら、それまでは藩主の下屋敷ということで足をふみ入れたことなどなかった市民は、庭園の開放という維新を象徴するかのような出来事と物珍しさにつられ、こぞって《衆楽園》を訪れたという。その人出とともに、園内には仮設の茶屋、見世物小屋、劇場、楊弓場がぞくぞくと設営された。 にぎわいがにぎわいを呼び、いつしか《衆楽園》には見世物小屋などにまじって「黒い板塀」で囲われた家屋が建ち並ぶ。それは、芸妓を抱える置屋である。一説では、「そのころ園内には約二百軒の芸妓置屋業などが肩を並べて客を引き大きな家では娼妓が百名、小さな家でも三十名は抱えていた」(『日本海新聞』昭和33年2月10日)。芸妓と娼妓が混同されているのはとりあえず措くとしても、200軒の業者、あるいは1軒で抱える娼妓が100名というのはいささか誇張にすぎるだろうか。下屋敷の庭園がまたたく間に盛り場に、さらには遊廓色の強い遊興空間に変貌したことだけはたしかなようだ。 この時期、すでにふれた旧袋川を挟んで「百花姸を競ふ」と称された本町の花街も成立していた。明治初年に一人の相撲取が出雲から芸妓をつれてきて開業した置屋がその端緒であるといい、明治期を通じて芸妓置屋や料理屋が集積し、「華やかな芸妓街」をかたちづくるにいたった。《衆楽園》に対しては、「町芸妓」の花街と位置づけられよう。 ちなみに、鳥取では、「芸妓置屋」を「検番(券番)」と呼び、置屋を取りまとめ料理屋と仲介する通常の「検番」を「芸妓検番事務所」と呼んでいた。大正期の「検番」すなわち置屋は、「花検、西検、叶家、丹吉、大正券、松検、福久栄、如月、南検」があり、本町3、4丁目に点在している。当時の「検番事務所」は3丁目にあった。