「同じ事を同じ状況で行ったのに」死刑執行された26歳上等兵曹と減刑された兵曹長 今生の別れ・・・澄み切った瞳を忘れられず~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#75
石垣島事件で死刑執行された26歳の成迫忠邦。石垣島警備隊の上等兵曹だった成迫は、3人の米兵が殺害された現場に同じく居た炭床静男兵曹長とスガモプリズンで同室の時期があった。命令によって米兵を銃剣で突いた二人。同じ事を同じ状況で行った二人の運命は分かれ、炭床兵曹長は、成迫が処刑される直前に死刑から重労働40年に減刑された。命をつないだ兵曹長が成迫への追悼文に残したのはー。 【写真で見る】死刑を宣告される炭床静男兵曹長
学徒出陣で軍隊経歴の短い下士官
鹿児島県出身で、成迫より6歳ほど年上の炭床静男兵曹長は、1945年に成迫が石垣島警備隊迫撃砲隊先任下士官として着任してからの知り合いだった。成迫は着任当時、最も若い先任下士官であり、しかも学徒出陣で軍隊経歴の短い下士官だった。職業軍人で甲板士官の職にあった炭床兵曹長は、各隊に対して無理な注文をしていたものの、成迫は戦局を良く理解し、最も良き協力者として努力してくれていたので、印象に残っていたという。 炭床も成迫も、石垣島事件で殺害された3人の米軍機搭乗員のうち、杭で縛られたロイド兵曹を銃剣で刺していた。成迫は2番目、炭床は10人以上後だ。いずれも命令によっての行為だ。 巣鴨遺書編纂会が1953年にまとめた冊子、「十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」に炭床静男が寄せた成迫忠邦への追悼文がある。(注・成迫が処刑されたのは4月7日、石垣島事件で死刑判決を受けたのは41名だが原文のまま掲載する) 〈写真:判決を受ける成迫忠邦 1948年3月16日(米国立公文書館所蔵)〉
しっかりしていて感心させられた
(成迫忠邦君を憶う 炭床静男) 十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」巣鴨遺書編纂会 1953年 1948年3月16日と1950年4月8日、この両日は吾々石垣島事件関係者には忘れることが出来ない日である。というのは、前者は元石垣島海軍警備隊司令井上乙彦大佐以下「四十名に対し絞首刑」と云う戦犯史上空前の極刑が横浜の米軍軍事法廷で判決された日であり、後者はその早朝、巣鴨拘置所で前記井上大佐外六名の死刑が執行された日であるからである。私がここに述べる成迫君もその一人である。 裁判中に於ける態度も、長い軍隊経歴を有する吾々よりもしっかりしていて、感心させられたものである。判決を受けたその日の午後二時過ぎ、当時の死刑囚棟であった五棟に入れられたのであるが、成迫君と私は二畳の独房に同居することとなった。 〈写真:「十三号鉄扉 (散りゆきし戦犯)」1953年〉
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