「同じ事を同じ状況で行ったのに」死刑執行された26歳上等兵曹と減刑された兵曹長 今生の別れ・・・澄み切った瞳を忘れられず~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#75
判決の日も笑顔 余裕の態度で
17歳で佐世保海兵団に入団し、海軍兵学校で教官を務めた経験もある炭床静男は、年下でしかも学徒兵だった成迫のしっかりとした態度に驚いていた。判決の日にも成迫は、余裕の態度で冗談を言っている。 (成迫忠邦君を憶う 炭床静男) 死刑の判決を受ける日、吾々は横浜に昼の弁当を携行して行ったが、その弁当は給食されず、五棟に入った後、別の食事が支給されて、然もその食事は裁判中のものより量が少なかった。すると君は「炭床さん、こんな食事では吊られる前に死んでしまうよ」と言ったのだが、この言葉を今も私は忘れる事が出来ない。普通の者には、判決の日の食事は喉を通らないと云う事を聞いているからである。私共の房の前の房には、裁判中御馴染のI君がいたので、食事の事を聞いて見ると、不断は相当の量があるということだったが、成迫君は、それを聞いて安心した、と笑っていた。死刑の判決を受けたその日、成迫君のこの余裕綽々たる態度に私は感心した。 〈写真:死刑の判決を受ける炭床静男兵曹長(米国立公文書館所蔵)〉
幼いころからお母さんとお経を上げた
(成迫忠邦君を憶う 炭床静男) その日の夕食も終わって暫くすると、読経の声や讃美歌の歌声が次々に起って来た。君も壁に向いて般若心経を講し始めた。私は何も知らないので唯、茫然とそれを聞いていたが、終わってから聞いて見ると、成迫君は幼い時からお母さんと共に朝夕お経を上げたとのことであった。私は家が真宗で時折は御経を聞いた事もあるが、それ迄は全然宗教などと云うものには関心はなかったので、その土壇場になって戸惑っていたのである。早速、次の日から君に就いて如何に死ぬべきかを研究し始めたのであった。当時は約一年間死刑の執行もなく割合のんびりしていたので、まだ死の研究などと呑気な事を考えていたのである。 其の後約一ヶ月、君と起居を共にしたが、その当時は気分転換の為時々部屋の入替えが行われて居たので私も君と別れて他の者と同室することになった。 〈写真:BC級の戦犯裁判がひらかれた横浜地方裁判所(米国立公文書館所蔵)〉
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