「同じ事を同じ状況で行ったのに」死刑執行された26歳上等兵曹と減刑された兵曹長 今生の別れ・・・澄み切った瞳を忘れられず~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#75
同じ事を同じ命令によって行ったのに
1948年3月16日に死刑の宣告を受けてから10ヶ月後、1949年1月10日に米軍の第八軍司令官の再審が発表され、死刑は41人から13人にまで減った。しかし、13人の中には炭床静男も成迫忠邦も含まれていた。同じ運命にある死刑囚たちは、訪問時間に関係者の部屋に集まって、互いの心境を語り、執行日の予想を話し合ったりしたそうだ。そして再審から1年2ヶ月が経過した1950年3月29日、二人の運命は分かれた。 (成迫忠邦君を憶う 炭床静男) そして三月二十九日、突如石垣島関係者六名の減刑が発表された。其の中に幸にも私の名前もあったが、遂に成迫君の名前を見出すことは出来なかった。同じ事を同じ命令に依り行ったのに、吾々のみ減刑となって君等に対して慰め様はなかった。「暫くの辛抱だと思うから頑張って呉れ」と言っては見たものの吾ながら何かそらぞらしい思いに苦しんだ。出て来る私共を笑って見送って呉れたのだが、これが今生の死別となってしまったのである。あの時の君の笑顔、そして澄み通った瞳、私はそれを永久に忘れる事が出来ない。 〈写真:巣鴨版画集より〉
「平気ですよ」にこにこ笑って絞首台へ
(成迫忠邦君を憶う 炭床静男) 四月六日朝、石垣島の七名は昨夜ブリュー(巣鴨拘置所内の米軍が名付けた地区名)に移されたと聞かされた。私は全身の力がぬけたようで、暫しは動く事も出来なかった。一週間前あんなに元気で送って呉れたのに、此の世には神も仏もないものか、何の罪もないものをどうして殺さなくてはならないのか。吾等の気持を考えると只涙が滲み出るばかりであった。 四月八日早朝、遂に七名の方々は絞首台上の露と消えられた。 後日減刑された方々の話に依れば、七名の方々は皆元気で行かれたということであった。 特に成迫君はにこにこ笑って「平気ですよ」と言って行かれたというのである。年若くして刑死された成迫君の冥福を祈りつつ。 〈写真:銃剣〉 26歳の若者は、どうやって穏やかに死に向き合うことが出来たのだろうかー。 (エピソード76に続く) *本エピソードは第75話です。
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