平原綾香 19歳のデビュー曲で「Jupiter」を選んだ理由「子どもたちの平和を祈る気持ちは、亡き父から受け継いで」
◆「私が大黒柱になって家族を守らなきゃ!」 父が出演するはずだったコンサートのステージに立った時、「父が隣にいるような気がする」みたいなことが起こるのかなと、ちょっと期待していたのですが、実際、父はどこにもいませんでした。 ところが歌い始めた瞬間、びっくりしました。父は自分の中にいたんです。声が勝手に出るような感覚で、今まで出なかった声が出たり、自分の声から父のソプラノサックスが聞こえたり。自分の細胞ひとつ1つに父が宿っているような気がしました。 他にも、父を受け継いだと思う瞬間があります。父は食欲旺盛な人で、食事中家族が食べきれない時は代わりに食べてくれたのですが、父が亡くなってからは、私がその役目を担うように。(笑) 今までは硬くて開けられずにいたビンの蓋も、自分で開けられるようになったり、かなり重いソファーも持ち上げられるようになったり。きっと、自分でも気づかないうちに「私が大黒柱になって家族を守らなきゃ!」と強がっているのかもしれません。
◆もっとも困っている人にエールを届ける 今年3月、東京国際フォーラムにて「第8回平原綾香Jupiter基金MyBestFriendsConcert~顔晴れ[がんばれ]こどもたち~withOrchestra」と銘打ったコンサートを開催します。これは2015年に「その時もっとも困っている人にエールを届けたい」という思いからスタートさせたもので、今年で8回目を迎えます。 私は2003年のデビュー以来、さまざまなチャリティーコンサートにお声がけいただきました。参加するうちに、私も「日本や世界で役に立つ基金を自身で立ち上げたい」と、いつしかそんな夢を描くように。 2004年に新潟県中越地震が起きた時、デビューしたばかりの私は、歌うことしか出来ないもどかしさを抱えていました。「音楽で何ができるのだろう。私は何のために歌うか。私の歌を聴いてくださる方はいるのだろうか」と自分に問いかける日々の中で、避難所からラジオ局にたくさんの「Jupiter」のリクエストが来ていることを知って。歌うことへの意味を教えてくれたのは、被災された方々でした。 2011年3月の東日本大震災でも、家や仕事、大切な人を失った深い悲しみや苦しみに触れました。私も立ち上がって何か役に立つことをしよう――。その時強く思ったのが基金設立のきっかけです。 「平原綾香Jupiter基」の存在を知り、取材に来てくださるメディアも年々増えています。基金のためにたくさんのテレビ局や取材の方々が来てくださったことが嬉しくて、思わず泣いてしまったこともありました。今日もこうして取材していただき、本当に嬉しく思っています。
【関連記事】
- 平原綾香、最愛の父でサックス奏者・まことさんが亡くなって1年。悲しみが癒えることはなくても「幸せ」だと前を向ける理由とは
- AIが語る朝ドラ『カムカムエヴリバディ』主題歌「アルデバラン」制作秘話「約10曲を制作した後、森山直太朗さんに作詞作曲を依頼。出来上がった曲は想像以上で」〈前編〉
- 川中美幸「八代亜紀さんがお年玉を渡す姿が忘れられない」藤山一郎「東京ラプソディ」から秋川雅史の「千の風になって」まで、テイチク90年の軌跡
- 新妻聖子「ブランチのリポーターから帝劇の『レミゼ』で衝撃のミュージカルデビュー。いまは息子の成長が1番の喜び」
- 石川さゆり「65歳、NHK『紅白歌合戦』紅組最多出場記録46回を更新!名曲を歌い続け、時代のにおいを運ぶ《風》でありたい」