花札でもなく、麻雀でもなく、ブラックジャックでもなく…作家・黒川博行(75)が人生で一番「ツキ」を発揮した瞬間
人生の関門
最初の大勝負は大学(京都市立芸術大学)受験。倍率三十倍のデザイン科を二回落ちて、親父からもう許さんと言われて、船に乗せられたんですよ。親父は船乗り(海運業)で、瀬戸内海で操業する四九九トンのけっこう大きな内航タンカーを持っていたので、それに無理やり。一年近く飯炊きやらの雑用をさせられたんだけど、あまりに重労働で、なんとかして逃げださんと、と思った。跡を継げと言われとったけど、「もう一回だけ芸大を受けさせてくれ」と頼みこんで一月に船を下りて二月の受験まで一カ月、必死に勉強しました。それで、倍率十倍の彫刻科に合格した。あれが人生の第一の関門でしたね。
第二の関門は教員採用試験。大学卒業後、ダイエーに就職して店舗意匠の部署で四年間働いてましたが、どうにも合わなかった。いっぽう、学生結婚したよめはんは卒業してすぐ中学の美術教師になったんですが、当時の教師は夏休み、冬休みがほぼ一カ月あった。
インドで放浪したいな
僕ね、そのころインドに憧れていて、インドで放浪したいな、とか考えとったけど、卒業してすぐ子どもができましたから、働くのを辞めるわけにいかん。それで、インドへ行くには教師になるのがいいかな、と翌年、二十八歳の年に大阪府の高校美術教師の採用試験を受けました。倍率が十七倍。ちょうどよめはんも高校の教師に転じたいということで、そろって受けたところ、なんとふたりとも一回で通ってしもうた。僕もよめはんも引きが強いので、ここ一発はいいんですわ。それで十年間、教師をしました。おかげでインドも三回行きました。
金になってない原稿を書いたことがない
その次の関門というか人生の転機が、教師になって五年目、三十三歳のとき。「サントリーミステリー大賞」の第一回の募集広告を目にして、一作くらいなら書けるんやないか、と勘違いした。それで夏休みを利用して書いて応募したんです。それが佳作をもらって(『二度のお別れ』)、佳作だけど本にしてもらえて作家デビューした。だから僕、金になってない原稿を書いたことがないんですよ。そこはすごく運が強いと思いますね。その後、もう一回佳作をもらって、第四回でサントリーミステリー大賞(『キャッツアイころがった』)をいただきました。 次が直木賞。四回目の候補作『国境』で取れなかったとき(二〇〇一年)、これは縁がないんやな、と思ったので、その後はなんの希望も期待もしていませんでした。それが、二〇一四年、六十五歳で『破門』が六回目の候補になり、あれよあれよという間に受賞(第一五一回)。まさに青天の霹靂。このとき「これは僕、運が強いんかな?」と思いましたね。一発では引けなかったけど、最終的には引いた、という強運でした。 とまあ、自分は持って生まれた運も強いんだろうし、それを上手に使ってこられたとも思います。 あ、でもいちばんの「ツキ」はよめはんかな。同じ大学に通っていて、学校のそばの雀荘で出会った。人生最高の当たり牌を引きました。好き勝手させてくれているし、博打の勝ち負けもいっさい聞いてこない。大敗して泣きついたときは損金を補填してくれる。感謝してます、よめはんにも、よめはんを引きあわせてくれた麻雀にも。
黒川 博行/Webオリジナル(外部転載)