ジョン・レノンが死の2日前に語った『イマジン』誕生の秘密…悲劇と出会うことで成長した名曲はなぜ今も歌い継がれているのか
1971年の発表されたジョン・レノンの『イマジン』。半世紀たった今でも、数多くのアーティストたちが歌い継ぎ、世界中で親しまれている曲だが、1980年12月8日に彼が銃弾に倒れた後、この曲の運命が大きく変わり始める。『イマジン』がなぜ名曲になったのかをひも解いていく。 【画像】ジョン・レノンが射殺された自宅のあるダコタ・ハウス
ジョン・レノンの死の6日後の追悼集会
ジョン・レノンの代表曲といえば、ほとんど条件反射的に『イマジン』が取り上げられることが多い。 だが、この曲がジョンの他の作品よりも高く評価されるようになったのは、1980年12月8日にニューヨークの自宅前で銃撃されて、亡くなってからのことだ。 ジョンが他界した6日後。未亡人となったオノ・ヨーコの呼びかけで開かれたニューヨークの追悼集会で、黙祷の始まりには「平和を我等に」が流れ、終わりを告げたのが『イマジン』だった。 それから約1か月後、イギリスでは5年前に出されていた『イマジン』のシングル盤が、チャートを急上昇して1位となった。 セントラルパーク内のストロベリー・フィールズという区画にできたジョン・レノンの記念碑は、1985年10月9日にニューヨーク市に寄贈されたが、造園及び維持費として100万ドル以上をオノ・ヨーコが寄付した。 石で描かれた円形のモザイクには、中央に「イマジン」の一語がはめ込まれている。 アーティストの死から40数年が経った今でも、ニューヨーカーやアメリカ人はもちろん、世界中からたくさんの観光客がこの場所を訪れる。 そこに飛び交う言葉はさまざまだが、誰もが口ずさむのは、 ”Imagine all the people Living life in peace” 大人から子どもまでがどこでも普通に歌える曲として、この歌が世界中に伝わっていることが分かる。 『イマジン』は、1971年9月にアメリカで発売されたジョン・レノンのアルバム『イマジン(Imagine)』の表題曲としてシングルカットされて、全米チャートで3位のヒットになった。 だが、その時点では、ジョンの歌声を活かした、メロディの美しい歌の一つであった。 しかし、何度かの悲しい出来事に直面することで、この曲は平和を訴える歌として全世界に知られていく。 悲劇を起こさないために作られた曲が、悲劇と出会うことで成長していったのだ。 1988年に製作されたジョン・レノンの自伝的映画は、『イマジン(Imagine: John Lennon)』と名付けられた。 この映画の公開を機に、ジョンの生誕50年となる1990年に向けて、公私ともにパートナーだったオノ・ヨーコは、世界における弱者の問題改善や環境保護への取組みを訴えて動き始めた。 ジョン50回目の誕生日を迎えた1990年10月9日。東西ドイツ統一の興奮が冷めやらぬ中で、オノ・ヨーコはニューヨークにある国連信託統治理事会の議場に招かれた。 そこで、「一人の夢はただの夢、皆の夢は現実となる」とスピーチして喝采を浴び、『イマジン』が議場に流れる様子が、世界130カ国にテレビ中継された。