「そして人とのつながりは完全になくなった」京アニ放火殺人、青葉被告の軌跡(後編)
また、通院の途中で自分が警察関係者に追跡されていると感じることがあり、足が遠のくこともあった。 通院先を変えるためだったのだろう。この頃、クリニックの医師は精神科病院に紹介状を書いている。だが訪問看護師は、青葉被告が病院への受診を好意的に捉えていないと感じたため、このタイミングで『医療中断』に陥る可能性を危惧した。服薬が乱れたり、止まったりすると離脱作用で心が不安定になる可能性があり、こうした事態を支援者らは恐れる。 結局、青葉被告は一度診察を受け、「院長が診察してくれた」と少しうれしそうに訪問看護師に報告したものの、精神科病院への通院は続かなかった。そして翌3月には訪問介護を受け付けなくなった。携帯電話も解約した。「携帯が自分を動かしている感覚がある」と、手放した理由を法廷で語った。訪問看護も3月末が最後になった。こうして外部とのつながりが被告自らの手で矢継ぎ早に失われていった。
青葉被告は3カ月後の18年6月、包丁をホームセンターで6本購入した。大宮駅で大量殺人を計画したのだ。実際に駅まで足を運んだが、「人が密集していない」と断念した。被告が京都に赴き、京都アニメーション第1スタジオに放火したのは、その1カ月後のことである。 青葉被告は訪問看護師ら、自宅を訪れてくる医療や福祉の関係者について感謝の気持ちは抱きつつ、「一人でやっていきたいというのがどこかにあったが、(彼らとは)縁が切れなかった」と法廷で語っている。こうした医療職や福祉職以外で被告を心配くれる人はおらず、彼らが被告の地域生活の命綱とも言える存在だった。 通院もしない。携帯で連絡が取れない。訪問看護師が部屋を訪れると居留守を使われる―。支援チームはいよいよ他人に危害を加えるリスクを懸念した。4月に入り、生活保護のケースワーカーが青葉被告の自宅を訪問調査した。室内の状況が分からない。なんとか被告と会って様子を確認するために、生活保護費を福祉事務所の窓口で手渡しする方法への切り替えが検討された。