一時は「借金だらけ」で大ピンチ… 信州発、ジャムやワインの全国ブランド、再建の道のりとは
信州に本社を構え、自社製のジャムやワインなどを、全国174店の直営・FC店舗で販売する企業がある。一時は、自己資本比率1%程度と、多額の借り入れと業績不振に陥ったが、父から経営を引き継いだ40代の兄弟が会社を大きく飛躍させた。食品製造販売会社「サンクゼール」(長野県飯綱町)の事業承継について、久世良太社長(47)に聞いた。 【動画】なぜ事業承継が大切なのか専門家に聞いた。
◆家業から離れ、研究開発部門に従事したセイコーエプソン時代
----家業を継ぐまでの経歴を教えてください。 小・中学校時代、父の会社が経営難に陥って多額の借金を抱えたこともあり、経営の難しさを認識していました。 だから、経営者よりは、人に何かを教えたり、ものづくりに関する仕事をしたいと考えていました。 また、父は仕事が忙しくて留守がちだったため、もっと家庭を大事にしたいとも思っていました。 電子工学を学ぶために東京の大学へ進学したのですが、通勤ラッシュが無理で…。 「これでは東京で仕事をするのは厳しい」と思い、地元・長野県の電機メーカー「セイコーエプソン」(長野県諏訪市)に就職しました。 私には弟・直樹(45)がいるのですが、当時アメリカに留学してワイン醸造の勉強をしていました。 家業は弟に任せるつもりで、私がサンクゼールを継ぐことは考えていませんでした。 家族も私のやりたいことを応援してくれていました。 ----セイコーエプソン在籍時は何をされていたのでしょうか? ビジネスも好きだったので事業部を希望していたのですが、研究開発部門に入りました。 そこで当時のセイコーエプソンがやっていたプリンター事業、プロジェクターのディスプレイ関係、半導体などの基幹となる基礎研究や分析業務を担いました。
◆面白みと可能性を感じた直営販売のビジネスモデル
----サンクゼール(※当時は斑尾高原農場)への入社の経緯と心境を教えてください。 セイコーエプソンに3年間勤務し、仕事も一人で任されるようになってとても充実していました。 そんなときに父から電話があって「入社してほしい」と言われたんです。 当時のサンクゼールの経理部部門長が喉頭がんを患い、どうなるか分からないと。 それで数字が強い人材が必要になって、私にアプローチが来たのです。 この時期はちょうど結婚をしたこともあり、悩みました。 しかし、私が入社するちょっと前、サンクゼールの直営販売ブランド「サンクゼールワイナリー」ができていました。 セイコーエプソンで量販店の小売りの力・パワーというものをまざまざと感じていましたので、自分たちの商品を作って、自分たちで販売価格を決め、そのまま売るというビジネスモデルに面白みや可能性を感じていました。 もしかすると家業のことがどこかで気になっていたのかもしれません。 それで妻とも相談し、新しい道へ踏み出してみようと思いました。 28歳のときです。