超ニッチ市場での意外な必勝法 安定志向の地元、怖がりな僕でも“不戦勝”戦略で起業家大賞に
勇気のない起業家だから…
山元さんは宮崎大学農学部に進みます。高校時代の反動もあり、大学では多くの人が未経験のアメフトを精いっぱいやろうと意欲満々だったといいます。 「ところが、大学にはアメフト部がありませんでした。他大学の先輩に誘われて社会人チームに入りました。10人くらい在籍していましたが、日々の練習に参加するのは先輩と僕くらい。2~3人だとろくな練習もできず、相撲をとっているような状態でした(笑)。でも、大学を回って粘り強く勧誘し、僕が宮崎大学大学院に進むころには大学でチームを組めるようになりました。ゼロから立ち上げたという成功体験はその後につながりました」 大学院修士課程のころ、就職活動を始めました。しかし、面接で「どんな仕事をしたいか」「生涯この会社にいてくれるか」などと質問を受けるたび、「会社勤めには向いていない。自分で何かを始める方が性に合っている」との思いを強くしたそうです。 山元 「やっぱり人にやらされるのは性に合わない。自分がやりたい仕事に就き、たとえそれが小さい分野でも、そこで1番をめざそうと考えました」 とはいえ、具体的なビジネス・プランも、絶対に成功させるという不退転の決意も持ち合わせていませんでした。 「まず就職し、30~40歳になってから起業することを考えましたが、途中で独立する勇気は自分にはないような気がしました。とにかく創業に向けて一生懸命やってみよう、でも30歳までに芽が出なかったら就職しようという考えでした」
地元では公務員がいちばん偉い?
宮崎県では、若者の県外流出が課題とされています。県内の高校を卒業した人の約半数が県外に転出し、大卒者の県内就職率は4割程度にとどまっています。山元さんもそうした実情に危機感を覚えていました。 山元 「私の地元の大阪と違い、宮崎の学生たちは『公務員になるのがいちばん偉い』みたいな感じなんです。大学の同期や先輩後輩の多くも『ここにはやりたい仕事がない』と言って県外に出ていき、若い人が残りません。 地域経済のためには、魅力的な雇用を増やす必要があります。起業にあたり、一人でも多く雇い、地域に貢献できればと思いました。大阪でやってもインパクトは小さいですが、宮崎なら数人でも雇えたら意義があるだろう、と」 山元さんの挑戦は大学院在学中の2000年に始まります。2人の恩人が背中を押してくれました。 同年7月、アメフトで関係のあった新聞販売店主の紹介で、宮崎商工会議所の期間限定の創業支援策「チャレンジショップ」に出店しました。何を売るのか直前までアイデアはなく、結局、学生時代に知り合った観光施設の経営者に頼み込み、施設にあったマグネットの土産物を借りて販売しました。赤字にはなりませんでしたが、生業とするには程遠い結果でした。