【ソフトバンク】恩師の浜田野球部元監督が引退和田毅にねぎらいのメッセージ「想像超えた成長」
ダイエー、ソフトバンクと“ホークス一筋”で現役引退を発表した和田毅投手(43)の恩師で、春夏合わせて9度の甲子園出場に導いた浜田(島根)の野球部元監督、新田均(しんた・ひとし)氏(現島根中央統括コーディネーター=67)が、日刊スポーツにねぎらいの思いをこめたメッセージを寄せた。【聞き手=寺尾博和】 和田からは昨日(4日)の夕方に「もう今年で引退しようと思います」という電話がありました。私からは、頑張ったなということに尽きますね。あとのことは、12月に島根に帰ってきたときに食事でもしながら話そうということで終わりました。 実は島根市立第三中学から浜田高校に入学してきたとき、わたしは和田が「右」なのか「左」なのかも知らなかったんです。中学では県大会の予選で負けていたし、現場で見る機会がなかった。最初から「左なの?」っていう感じでしたからね。 当時、うちに和田の同級生になる部員が10人入部してきました。全員が県内からです。浜田高としては多い方ですよ。でもそのうち8人がピッチャーだったんです。いいピッチャーがいるという話だけは伝わっていたし、足も速く、運動神経も良かった。 私はとりあえず外野を守っておけとなった。でも和田の上級生が4人しかいなかったので、練習試合で投げるピッチャーも足りなかった。それで和田を投げさせたんです。でもコントロールは悪かったですね(笑い)。 しかし、キレのいいボールを投げました。しかも3ボールになっても置きにいかないんですよ。強気のピッチングをするので、これは性格的にもピッチャー向きだなと確信したものです。それで投手に専念させることになったんです。 でも、身長が168センチと小柄でした。寮生でしたから同級生のキャッチャーと一緒に、夏休みなど寮が閉まっているときなどは私の自宅に連れてきて飯を腹一杯食べさせた思いがありますね。 和田との思い出ですか? いろいろあります。2年のときに秋田商に押し出し四球でサヨナラ負けでした。3年のときは帝京(東京)に勝ってベスト8に進出することができました。勝ったときも、負けたのも、いい思い出として残っています。 投げるとき、グラブを持つ右腕が水平まで上がってこなかった。いわゆるバランスをとってリードする右腕ですよ。それを上げなさいとは指導しましたね。打者の方から頭の後ろにボールが隠れて見えづらいのは、本人の感覚でマスターしたんじゃないでしょうか。教えてできるものではありませんからね。 よく練習しました。本人に言わせると、私の指導は厳しかったと言うんですよ。でも私は記憶にない。私自身はそんなに厳しく指導したつもりはないんですけどね(笑い)。すべてにストイックです。高校3年間、無遅刻、無欠席は立派でしたね。 早大からドラフトにかかってプロ入りし、新人王を取って、日本シリーズの大舞台で投げて、大リーグにまで行くとは思わなかったです。私の想像を超えたピッチャーに成長してくれました。 今後のことはわかりませんが、指導者としてはどうなんでしょうか。もともとみんなでご飯に行ったりするようなタイプではありません。でもキャンプは何人かのピッチャーを連れてやってますよね。そのあたりの集団になったときの人間関係というのはどうでしょうか。 ここまで投げてこられたのは努力のたまものだと思います。私としては、少しゆっくり休んでから、次のステップに進んでほしい。そしてこれからも野球には携わってほしいと思っています。とにかくお疲れさま、よくやった、とほめてあげたいです。