“空気”より厄介? 森友学園問題で注目を浴びた「忖度」という言葉の威力
「KY」な社会より、「SS」な社会?
池上彰氏が「朝日新聞」の連載コラム「新聞ななめ読み」(3月31日)で、道徳教科書の検定において、教科書会社の「忖度」が働いたという旨の一文を書いています。文科省の指摘を受けた教科書会社が、小学校1年生の教材に登場する「パン屋」を「和菓子屋」に、「アスレチックの公園」を「和楽器店」に改めたという記事に対する論評です。文科省は具体的な書き換えを指示したのではなく、指導要領の「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点が欠けていると指摘しただけといいます。 池上氏は「滑稽というほかない」という「天声人語」の批判を紹介したうえで、〈教科書会社は文科省の顔色をうかがって忖度し、「和菓子屋」や「和楽器店」を持ち出す、という構図になっている〉と分析しています。さらに踏み込んで、文科省が〈教科書会社に忖度させて、内容をコントロールさせる〉という側面もあると見ています。これを物理的に立証するのは至難の業ですが、「忖度」のベクトルは「あちら側」が自分たちのほうに向くように仕掛けられているのだとしたら、ますます厄介です。 「空気」に話をもどすと、山本氏は「空気」による拘束力が増大したのは近代以降で、〈徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があった〉と述べています。 「忖度」の歴史も、これに重なるのでしょうか。ただ「空気」と違って、「忖度」はこれまで日の目を見られてきませんでした。 森友学園問題ははからずも、日陰の存在だった「忖度」という言葉を表舞台に押し上げ、その双方向性の構図にも目を向けさせてくれました。「忖度しない、させない」という「SS」な社会が望ましいのか。「KY」と同じく、「忖度」の効用もそこそこ認めるべきなのか。政治家やお役人の胸のうちを忖度できる材料はありません。 ただ今後、政界絡みの怪しい事件、いかがわしい出来事がおこると、池上氏が持ち出したように、「忖度」という補助線がたびたび引かれることになるのは確かでしょう。政治家やお役人も、個々の陳情や相談ごとへの対応が過剰な「忖度」にあたらないか、自粛・自省することになるかもしれません。だとしたら、多くの「罪」が重なった森友学園問題にも、ちょっとした「功」を見出せそうです。 (フリー編集者・大迫秀樹)