会社に壊されない生き方 (14)指図されずに、つくりたい本をつくりたい
編プロに就職、出版社を渡り歩き、心労で退職
編集プロダクションでは、入社早々、いきなり編集長を任されたのだ。それまでいた社員が全員退職し、そのポストを任せられる人がほかにいなかったためだ。出版社との交渉など編集長の重責を担いつつ、編集者としての業務にも奮闘する日々。毎日、終電の時間まで働かなければとてもこなせる仕事量ではなかった。 その後、勤務したどの出版社でも、入社後すぐに編集長的なポストを任されるのが常だった。退職した前任者の後がまとして期待されたのだ。管理職としての重責と仕事量が重くのしかかり、ストレスがたまっていった。管理職業務の合間をぬって、一編集者として書籍の企画や編集の仕事にも取り組まねばならない。 過重労働も常態化した。月の残業時間は平均で80時間以上。午前0時まで働く日は珍しくなかった。土日祝日も、自社が主催する著者のトークイベントなどがあると、出勤した。休日を利用して著者に会いにいったり、新たな著者開拓のため各種イベントに出向いたりもした。編集の仕事にはキリがなかった。 ストレスの蓄積と過重労働のなかで、菊谷さんの心は限界を超えた。会社にいるのが耐えられなくなり、出社できなくなってしまう。2008年3月、勤めていた出版社を辞めた。 当時、菊谷さんの妻のお腹には子どもがいた。「大変な時期なのに、妻は『心が苦しいなら辞めちゃいなよ』と言ってくれました。普通なら引き止めると思う」と菊谷さんはしみじみと振り返った。
休養、就職活動、清掃アルバイト
退職したあとは、自宅で1年ほど休養した。その後、就職活動を開始。正社員になりたくて、出版に限らずさまざまな業種の会社に応募した。その数、約200社。結果は、すべて不採用だった。 菊谷さんが就職活動をしたのは、2009年。その前年の2008年9月には、「リーマン・ショック」があった。日本も影響を受けて景気が低迷。リストラをする企業が相次いだ。 2009年、国内の月平均有効求人倍率は0.47倍。少ない求人に対して、リストラで職を失った人も含めて求職者が殺到した。菊谷さんだけでなく、求職者の大半にとって、次の仕事をみつけるのが困難な時代だったのだ。 約200社の不採用を経て、ようやく清掃会社のアルバイトの仕事が決まった。都内にある百貨店内の清掃の仕事だった。体を動かして働くのはここちよく、精神衛生上、良い仕事だと思えた。清掃会社の上司にも気に入られたが、かといって一生勤める気にはなれなかった。 いつかは自分の出版社をつくりたいとは思っていた。そして、清掃会社を辞めた。