会社に壊されない生き方 (14)指図されずに、つくりたい本をつくりたい
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「6畳あれば、出版社はできるんです」。その言葉や表情からは、仕事に対する充実感が伝わってきた。埼玉県川越市で出版業を営む菊谷倫彦(きくやともひこ)さん(40)。ストレスと過重労働に苦しんだ末、東京都内の出版社を退職した。その3年後、出版社「菊谷文庫」を個人で立ち上げ、再び出版の世界に戻った。菊谷さんを支えたのは、「つくりたい本をつくりたい」という強い思いだった。
6畳の出版社
東武東上線霞ヶ関駅から徒歩約10分。出版社と言えば、都心のオフィスビルで書籍や雑誌がつくられるイメージがあったが、ここは違う。駅名も官庁街にあるものと同じ「霞ヶ関」だが、ここは典型的なベッドタウンだ。住宅地の一軒家に「菊谷文庫」と書かれた手書きの看板が白い柵に掛かっていた。 2階建て住宅の玄関前に立ち、チャイムを押すと、黒ぶちメガネをかけた菊谷さんが玄関に現れた。おだやかな表情だが、話す声には力強さがある。 築40年というこの借家は、自宅と職場を兼ねている。菊谷さんと妻(35)、長男(9)、長女(5)、次男(3)の5人暮らし。3DKの間取りのうち、2階にある広さ6畳ほどの洋間が「菊谷文庫」の仕事場だ。 階段を上がり、仕事場のドアを開く。室内の2面に窓があり、明るい。白い円卓があり、その奥の窓際では積み重ねられた段ボール箱が少し傾いている。 本棚には、さまざまな書籍のほかに紙見本や印刷の色見本の置かれたスペースも。 押し入れの戸は外されていて、なかにはパソコンやプリンターが置かれている。オフィス用のデスクを置くと部屋が狭くなるといい、押し入れをデスク代わりに使っている。
哲学の研究者志望から出版の編集者へ
子どものころから物事を考えるのが好きだったという菊谷さん。将来は、哲学の研究者になりたくて、大学および大学院の博士前期課程で哲学を学んだ。 博士後期課程にも進むつもりだったが、前期課程修了のための論文のテーマで、指導教官ともめてしまう。「吉本隆明をテーマに書きたいと思っていたのですが、教官は『研究者を目指すなら、カントやヘーゲルなどオーソドックスな哲学者をテーマに書け』というのです。頭にきて、それなら就職しようと考えたのです」 ここで、教官にしたがって博士後期課程に進む、という選択肢だってありえただろう。今ある自分の願望を押し殺して、「研究者」という将来の夢に近づく。これだって、けっして悪い手ではない。 しかし、当時の菊谷さんにとっては受け入れがたかった。「大学では、したくもない研究をするうちに、何を研究したかったのか忘れてしまう人がいました。自分の好きな研究をしたいから大学に来たんです。信念を曲げて後悔したくなかった」。自分が今、研究したいテーマを研究したい、という思いを大切にしたかったのだ。 結局、論文は吉本隆明をテーマにし、博士後期課程への進学はやめた。就職先には「アカデミックな世界に近い職業」と考えた出版業が良いと判断。たまたま新聞の求人欄にあった編集プロダクションに応募して、2004年3月から出版の世界に足を踏み入れた。