12歳の入内から、70年近くも宮廷の中枢に座った彰子。定子とは一度も顔を合わせたことがない?ライバル「3人の女御」とは?『光る君へ』で描かれなかった<道長の作戦>について
大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回は皇子を出産する前の彰子について、新刊『女たちの平安後期』をもとに、日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。 『光る君へ』次回予告。道長と彰子の間に距離が。「ここは私が歌を詠みたくなるような場ではございませぬ!」と藤壺で言い放つききょう。そして妍子は夫の子・敦明親王に「好・き」と言い寄り… * * * * * * * ◆『栄花物語』に記された彰子 『栄花物語』は、宇多天皇の即位に始まるひらがなで書かれた歴史書である。 正編と続編からなり、正編は紫式部の同僚だった赤染衛門により、1030年頃に書かれたという。 この本では、長保元年(999)に数え12歳で入内したころの道長の娘、女御藤原彰子を、髪は背丈より五、六寸(15センチ余り)長く、大変美しかったとしており、また、20歳頃の描写として、髪が長いとともに、小柄で色白、頬は赤かったとしている。 その幼げで小柄な姫が、それから70年近く宮廷の中枢に座りつづけることになる。
◆二人のキサキが並ぶ体制はどのくらい続いた? 彰子といえばライバルとしてよく挙げられるのが、父道長の兄、道隆の娘の定子だ。 しかし実際に二人が後宮で並び立っていたのは、彰子が女御となった長保元年11月から定子が没する同2年12月まで、1年程度に過ぎず、彰子中宮、定子皇后と、一人の天皇に二人の最高位のキサキという体制だったのはその中でわずか10ヶ月、彰子が12歳から13歳のころである。 おそらく二人は顔も合わせたことがなかっただろう。 貴族の姫は母方で育つもので、父方の従姉妹だとまず会うことはない。 後宮では、皇后と中宮はもちろん、女御たちとも会う機会はまずなかったと思われる。
◆彰子のライバルたち 彰子にとってむしろライバルとなったのは、藤原公季の娘の女御義子(996年入内)、藤原顕光の娘の女御元子(996年入内)、藤原道兼の娘の女御尊子(998年入内)だった。 彼女らは長徳元年(995)に定子の父、藤原道隆が没した直後に入内しており、いまだ皇子誕生がなかった定子を牽制する意味で送り込まれた可能性が高い。 藤原公季は師輔の子(道隆の年下の叔父)で、兄の兼家から道隆へと関白が移ったため摂関のルートには乗れなかったが、母が村上天皇の同母姉の康子内親王という、飛び切りの高貴な血筋であり、義子の入内当時は大納言。 また藤原顕光は、師輔の次男で兼家の兄の関白兼通の長男で、元子の入内当時は権大納言。ともにいわば准大臣である。 しかも顕光の妻で元子の母は、やはり村上天皇皇女の盛子内親王ときている。 元子と義子は村上天皇に連なる、彰子以上に箔付きの姫なのである。 そして義子は入内時すでに23歳、元子の年はわからないのだが、長徳3年に想像妊娠ではないかと思われる懐妊騒ぎを起こしているので妊娠可能な年齢になって入内したものと思われる。
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