12歳の入内から、70年近くも宮廷の中枢に座った彰子。定子とは一度も顔を合わせたことがない?ライバル「3人の女御」とは?『光る君へ』で描かれなかった<道長の作戦>について
◆道長のしたたかな作戦 道長は左大臣で内覧宣旨、つまり天皇に先立って太政官で審議された法案を見ることができる特権を受けており、文字通り「一の人」だったが、公季や顕光が天皇の外祖父になれば立場が逆転することもまだまだあり得たわけである。 こればかりは運を天に任せるしかない。 しかし道長はかなりしたたかな作戦を取っていたのではないかと思われる節がある。それは尊子の入内である。 尊子は藤原道兼の娘で、入内当時15歳、彰子や定子の従姉妹にあたる関白の姫だから、やはり二人の強力なライバルになる。 しかし注意したいのは、入内したときにはすでに道兼は没しており、その嫡男兼隆もまだ出仕したばかり、つまり彼女にはバックがいないことである。 ならば誰が彼女を入内させたのか? じつは彼女の母は藤原師輔の娘で繁子といい、一条天皇の乳母なのである。尊子は一条天皇の乳姉妹で幼なじみということになる。 そして繁子は早くに道兼とは男女の仲ではなくなり、この母子は道長に接近していたらしい。 とすれば道長は、万一彰子に子供ができなかった場合の、いわば控え役として尊子を送り込んだ可能性がある。 すでに道長は、定子の忘れ形見となった敦康親王を、彰子とその母の源倫子に養育させており、これと同様な、道長による一条天皇後継者確保の「保険」だったと見ることができる。
◆おまけの話 一条天皇と藤原道長は甥と叔父(道長の姉の詮子の子)の関係である。そして次の三条天皇もそう(道長の長姉超子の子)だ。 天皇と藤原氏のトップが近い親戚というのが摂関政治の基本を支える関係だが、祖父と孫と、伯叔父と甥ではどうもパワーバランスが異なるようだ。 一条天皇が即位したときには、詮子の父の兼家が摂政になっており、道長はその関係を引き継いだわけだ。 そして最初は詮子が間に立っていたが、一条が成人し、詮子が亡くなると、次第に関係がぎくしゃくしてくる。 一条にとって道長は「わずらわしい親戚の叔父さん」になっていくのだ。 前著『謎の平安前期』でも触れた、現役の天皇を藤原氏のトップが解任した元慶7年(883)の事件の当事者、陽成天皇と藤原基経もまた、甥と伯父だった。 陽成と基経の対立の背景には、陽成の母藤原高子と兄の基経の不和があった。 道長が一条天皇にプレッシャーをかけて、三条天皇とも対立し、二人の甥より孫の後一条天皇の即位を急がせたのも、甥より孫の方が安心できるから、ということなのである。 ※本稿は、『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(中公新書)の一部を再編集したものです(末尾の「おまけの話」は本稿のための書きおろしです)。
榎村寛之
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