秀吉と秀忠が仙石秀久に求めた異なる「役割」
■期待された「役割」に振り回された仙石秀久 仙石秀久(せんごくひでひさ)は、豊臣秀吉の古参家臣という立場から徐々に頭角を表しました。四国勢を率いる軍監として、九州征伐に臨んだものの戸次川(へつぎがわ)の戦いで大敗し、自領の讃岐まで逃亡した事が原因で改易されており、一般的には評価が低い武将です。 その後、小田原征伐での活躍により大名として復帰をするものの、それまで秀吉から期待されていた豊臣政権での地位は戻ることはなかったようです。 しかし、江戸時代に入り、家康(いえやす)より2代将軍秀忠(ひでただ)の補佐役として任じられると、秀忠から厚い信頼を受けて、特別な扱いを受けるようになります。 このギャップには秀久が期待された「役割」の違いがあると思われます。 ■「役割」とは? 「役割」とは辞書によると「役目を割り当てること。また、割り当てられた役目」とあります。加えて「社会生活において、その人の地位や職務に応じて期待され、あるいは遂行しているはたらきや役目」とされています。 「役割」が適材適所に振り分けられると良いですが、創業期など人材が不足している場合においては、当人の能力を越える重荷を背負わされる事が多々あります。秀久も秀吉からの期待により過分な「役割」を担わされていたのかもしれません。 ■仙石家の事績 仙石家は藤原北家の流れを組む後藤氏を祖先に持つと言われています。美濃国守護土岐家、次いで斎藤家に仕え、織田家に臣従すると、信長によって秀吉の与力に配されます。姉川(あねがわ)の戦いでの武功により、近江野洲に1,000石を与えられ、1578年には4,000石を加増されます。 その後も山崎の戦いや賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでの活躍を評価され、四国の抑えとして淡路島5万石を拝領し大名となります。四国征伐においては黒田家や蜂須賀(はちすか)家とともに活躍し、讃岐一国を与えられ、国持大名となります。